雨戸の外から耳を傾けてみた。何の声も物音も聞えなかった。彼は更に耳を澄した。しいんと静まり返っていた。それでも彼はなお暫く佇んでいた――待ってみた。戸が開いて……敏子が……、そこまではっきりした形を取ると、彼は自分の不貞な空想に駭然とした。そうじゃない、俺は云い残したことがあるのだ! と彼は自ら云ってみた。然し不安は去らなかった。彼は急いで足を返した。けれどもなお庭を歩いていると、其処まで落ち込んでいった彼の頭には、過去の記憶がまざまざと浮んできた。檜葉の茂み、楓の幹、空池《からいけ》の中の小石、それらは皆闇に包まれていたが、それらにまつわってるあの当時の思い出がしつこく頭に浮んできた。然し俺は真に恋したのではなかった、兼子の方を本当に愛してるのだ、と彼は心の中で呟いた。その呟きの下からまた、先刻敏子に対して懐いた一瞬間の興奮を思い起した。彼は理屈に縋ろうとした。夜の燈下の下では、肉体の真の美よりも、肉体の一種のあくどさの方が、より強く男の心を惹きつけることがある。なぜならそれは、美意識を通じて働くのではなくて、直接情慾に働きかけるから。然しそんなのは、取るに足らないことだ、心に関係の
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