を撫でてやろうという気も起らなかった。離れているとあんなに気に懸ったのが、眼の前にその姿を見ると、もう手を出す気も起らなかった。触るのが憚られるようだった。彼は自ら変な気持ちになった。その気持ちを掘り進んでゆくと、敏子へ余り拘泥しすぎてることに気付いた。……彼は敏子の顔を眺めた。敏子は落ち付き払って、それでも遠慮がちに、幾代や兼子と短い言葉を交わしていた。
「では、もう寝《やす》んだら宜しいでしょう。依子が眠そうだから。」と幾代はやがて云った。
「はい。」と敏子は答えた。そして子供の上に屈み込んで云った。「寝んねしましょうね。」
 奥の六畳に床が敷いてあった。
 皆が立って行った後に、彼は一人腕を組んで坐っていた。やがて縁側の雨戸を一枚開いて、庭へ下りていった。冷たい夜の空気が額を撫でた。空を仰ぐと細かな糠雨が、殆んど分らない位に少し落ちていた。植込みの影が魔物のように蹲っていた。何処からか射してくる淡い光りに、楓の若葉がほんのりと見えていた。彼は吸いさしの煙草をやけに地面へ叩きつけた。訳の分らない不満が心の中に澱んでいた。長い間歩き廻った後、彼はいつのまにか奥の六畳へ忍び寄っていた。
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