云った。
「実は、私《わし》は敏子を連れ戻すために来たんだが……その手筈だったんだが、あの模様ではね。……まあ今晩一晩だけ泊《と》めてやったらいいだろう。幾代も兼子もそう云ってるんだから、お前もそのつもりでね。」
「いいようにして下さい。」と彼は冷かに云った。
瀬戸が帰ってゆくことは分かっていたけれど、彼は玄関まで見送りもしなかった。機械的に立ち上った足で、庭の中をまた歩いていると、向うの室に敏子の姿を見かけた。彼は一寸眼を見据えた。それからつかつかとはいって行った。
敏子は膝の上に子供を抱いて室の偶にしょんぼり坐っていた。彼の方をちらりと見上げて、また眼を伏せてしまった。彼ははいって来た縁側の障子を閉めた。閉め切ると、自らはっとした。電気の光りに輝らされてる四角な室、隅っこに顔を伏せている彼女、入口を塞いでつっ立っている自分、その光景が宛も、桂の中の野獣とその餌食とのように頭に映じた。……彼はまた障子を開いた。そして、その敷居際に腰を下した。
「寒くはないですか。」と彼は云った。
「いいえ。」と敏子は答えた。
彼は向うの言葉を待った。然し敏子は俯向いたまま何とも云い出さなかった
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