して、すぐ子供の側へ寄っていった。
「こちらへいらっしゃい。抱っこしてあげましょう。ねえ、お父様も帰っていらしたでしょう。ねえ、いい児ちゃんですね。」
 然し彼女が覗き込めば覗き込むほど、子供は益々深く母親の胸に顔を埋めた。
「どうしました、え? 先刻《さっき》はあんなに馴れっこになってたのに……。困りますね。」と兼子は云いながら、没表情な微笑を浮べた。
 彼はその方を見やった。そして、子供の上に屈みこんでる敏子の横顔を見た。皮膚のたるんでるような頬、きっとしまった厚い唇、太い首、眉の横の黒子《ほくろ》、……凡てよく見覚えのあるものばかりだった。彼は落付いた気持ちでそれらを眺めた。兼子が来てから敏子の方を平気で眺められるようになった自分の心持ちの変化を、不思議なほどぴたりと感じた。またそう感ずることで、心が落付いた。ぼんやり視線を注いでいると、ふと敏子の耳が眼に止った。後ろにかきあげた揉上《もみあげ》の毛に半ば隠れ、幾筋もの曲線をうねらし、耳垂《みみたぼ》がしゃくれっ気味に締れ上っていた。彼は珍らしい物を見るような気がした。それは記憶の中の彼女とは、全く没交渉なものだった。余りにしげし
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