があった。彼はそれを美しいと思った。崇むべき美しさだと思った。変な気持ちになった。
 こちらよ、と彼女は素振りで云った。
 そう、と彼は眼で答えた。
 彼はつとはいっていった。幾代の視線を受けて、彼は額が汗ばむのを感じた。すぐ其処へ坐った。見ると、向うに居る一人の女からお辞儀をされていた。彼も黙ってお辞儀をした。
「この女《ひと》が……。」幾代はいい出して、急に口を噤んだ。彼女は彼に敏子を紹介でもするつもりらしかった。その間《ま》の悪さを自らまぎらすためかのように、彼女は子供の方を向いて、慌てて云い続けた。「これがあなたのお父様ですよ。さあ抱っこしてお貰いなさい。ほんとにね、長い間……。」
 彼女はまた口を噤んだ。そしてじっと子供を膝に引寄せていた。
 彼はただ、額ににじみ出てくる汗を我慢することに、全力をつくした。やがて眼がはっきりしてきた。幾代の膝に半ば身体をもたして、顔を伏せてる小さな子を、彼は見た。細かな柔かな髪の毛と円っぽい手の爪とが、はっきり眼の底に残った。彼は立ち上ろうとした。その時、子供を見守ってる敏子の眼を感じて、また坐り直した。敏子の方へ顔を向けることが憚られた。執
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