それでいいだろうか? 理由はなしにただ否という気持ちが、心の中に湧き上ってきた。彼女はそれを見て取ったらしかった。
「おかしいわね。あなたはどうしてそう急に子供がほしくおなりなすったんでしょう?」
「子供がほしいんじゃない。」と彼は答えた。
「そう。では私達にかぶれなすったのね。」
 然し彼女の眼はその言葉を裏切っていた。揶揄するような小賢《こざか》しい光があった。嫉妬してはいけない、と彼は心の中で彼女に云った。そして、自分の子でないという焦燥を彼女の心に起させるのは、最もいけないことだと思った。彼は口を噤んだ。彼女も口を噤んだ。互に相手が何か云い出すのを待って、二人はいつまでも黙っていた。
 彼は一度、三田行の電車に乗ってみた。別に依子に逢いたいという気でもなかった。早く決定しなければ堪らないと思った。幾代と兼子とが、既に決定したもののように先のことばかり考えてるのを見ると、彼は現在の不決定な状態に益々苛立った。電車の中に、乳母らしい女に負《おぶ》さってる二歳ばかりの女の子が居た。手に一枚の塩煎餅を掴んで、鼻汁を垂らしていた。粘っこい眼付で彼の方をじろじろ眺めだした。彼は不快な気持ち
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