聞きながら彼は、話の内容には余り気も止めずに、敏子――昔のとし[#「とし」に傍点]――と依子との生活を想像に浮べていた。あの時別れて以来、彼は二人に逢ったことがなかった。厳格な父の怒りに觸れて以来、彼の耳には二人の消息は更に達しなかった。ただ何かの折に、二人が三田に住んでることを一寸耳にしたので、入り組んだ小路をやたらに彷徨したことがあった。然し敏子らしい姿は一度も見かけなかった。そして疲憊しつくした彼の眼には、慶応義塾の美しい図書館の姿が、暮れ悩んだ空を景色にして、くっきりと残ったのみであった。それから、彼は凡てを過去に埋める気で忘れるともなく忘れていった。父の死後、瀬戸の伯父から二人の様子を、ちらと匂わせられるような機会が、よほど多くはなったけれど、その時はもう彼の生活は可なり前方に押し進んでいた。彼は兼子と結婚し、兼子を愛した。過去の罪をふり返ることは、更に罪を重ねることのように思われた。兼子は彼を許してくれた。彼も自ら自分を許した。そして今突然――幾代と兼子との申出でから半月ばかりたってはいたが、彼にとっては非常に突然の感があった――今突然、敏子と依子とが彼の前に立ち現われてき
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