下駄の音で、それと知ったけれども、なおじっと耳を澄ましたまま身を動かさなかった。暫くすると急いで階段を上ってくる足音がした。兼子がはいってきた。
「あなた、お母様が帰っていらしたわ。」
 彼は黙ってその顔を眺めた。彼女は何かしら慌てていた。ちちりと眼を外らして、そのまま階下《した》に下りていった。彼も立ち上った。室の中を一廻りくるりと歩いて、それから母の所へ行った。
 幾代は火鉢の前に坐って、茶を飲んでいた。そして兼子に話していた。
「さほど遠いような気もしませんでしたよ。気が張っていたせいでしょうね。」
「然し、」と彼はいきなり云った、「随分時間がかかりましたね。」
「ええ、いろいろ話があったものですから。」
「そして、あの向うの御返事は?」と兼子は尋ねた。
「大体のことは承知したようですけれど、四五日待ってほしいと云っていました。余り突然だったものですから、それは喫驚しましてね……。」
 幾代はふと口を噤んだ。そして思い惑ったような風で二人の顔を見比べた。それから急に眼を輝かした。彼女は少からず興奮していた。一度に種々なことを饒舌りだした。
「狭い古い家ですけれど、わりに小綺麗にし
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