成した。そして自ら進んで彼に説いた。彼は諾否の返答を与えなかった。然し皆にとっては、決答がないのは承諾と同じだった。
「私が内々向うの意向を探ってみましょう。」と幾代は云った。
幾代が一人で出かけてくれたことは、彼にとって嬉しいことだった。然しそれに自ら気付くと、いつのまにか自分も茲まで引きずられてきたことが、驚いて顧みられた。
「一体お前自身は、そうしたいのかしたくないのか?」と彼は自ら反問してみた。何とも云えない嫌な気持ちになった。信じきってるような兼子の顔を見ると、狼狽の気持まで更につけ加わった。彼はふいと座を立った。書斎の机に坐ってみた。庭を歩いてみた。それから散歩に出てみた。然し遠くへは行かなかった。何だかしきりに気にかかった。家の前を何度も往き来した。或る坂塀の下の隙間から、可愛らしい仔猫が首を出して、彼の方を覗いていた。それを見て彼は、また家へはいっていった。
「お母さんはまだ?」と彼は尋ねた。
「はい、まだお帰りでございません。」と女中は答えた。
母は家を出てから、四時間ばかり後に帰ってきた。その時彼は書斎にぼんやりしていた。玄関先の石疊みを踏む両刳《りょうぐり》の
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