女の手を執った。冷たい手だった。彼はそれを握りしめた。そして他のことを云った。
「お母さんは?」
「お居間でしょう。」
 彼は立ち上って母の所へ行ってみた。幾代は仏壇の前に坐って、手を合していた。仏壇には蝋燭に火がともされ、抹香の煙が立ち昇っていた。それを見ると彼は、眼に涙が出てくるような心地がした。然し心にもない言葉が口へ出た。
「何をしてるんです、縁起でもない!」
 幾代はふり向いて眼を見張った。然し彼女は何とも云わなかった。
 彼は足を返した。何を慌てているんだ! と自ら浴せかけた。自分自身が堪らなく惨めな気がした。熱い茶を飲んで、すぐに寝た。布団を頭からすっぽり被った。それは昔からやりつけてる自己催眠の方法だった。然しなかなか眠れなかった。幾度も頭を布団から出したり入れたりした。
 翌朝彼は遅く起き上った。昨夜兼子が突然熱烈な態度に変って、しまいに泣き出したことを、また、自分も変に感傷的な情熱に駆られたことを、夢のように思い起した。不眠の後のような、神経の疲れと弛緩とを覚えた。そしていつまでも床の中に愚図々々していた。漸く起き上って出て行くと、向うの室で兼子や依子の笑い声がしていた。彼は変な気がした。何だか家の中の様子が違ったように思われた。顔を洗う時、やたらに頭へ水を浴せた。
 敏子は朝早く帰っていったそうだった。
「そうですか。」
 彼は簡単に幾代へ答えた。そして何にも尋ねなかった。幾代もそれ以上何とも云わなかった。
 依子は別に母親を探し求める風もなかった。幾代や兼子や女中達と面白そうに遊んでいた。玩具に倦きると庭に出た。庭に倦きると表へ出た。そしてまた玩具の所へ戻ってきた。も少し馴染むまでは遠くへ連れていってはいけない、と幾代は云った。その幾代を、依子は「お祖母《ばあ》ちゃま」と呼んでいた。兼子を「お母《かあ》ちゃま」と呼んでいた。
 そういう依子を、彼は不思議そうにわきから眺めた。これが自分の子かと思うと変な気がした。「あなたによく似ていますわ。」と兼子はくり返して云った。
 遠くから見ると、大きい眼と口とだけが著しく目立った。近くから見ると、髪の毛に半ば隠れてる広い額と短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]とが、何となく不平衡な感じを与えた。短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の下に、更に短い首があって、すぐにいかつい肩へ続いていた――ここの所は敏子そっくりだ、と彼は考えた。然し口へは出さなかった。
「さあ、お父《とう》ちゃまに抱っこしてごらんなさい。」と兼子は云って、彼の腕へ子供を渡そうとした。
 彼はそれを一寸抱き取って、すぐ下に下した。しなやかな小さな両腕、円っこい弾力性の胴体、それがずっしりとした重みを持って、足だけが妙に軽やかだった。その軽い足で子供は向うに駈けて行こうとした。不安だという気が彼に起った。彼は俄に子供を捉えて、また胸に抱き上げた。子供は軽い足だけをばたばたやった。いつのまにかべそをかいていた。
 この小さな存在は、一体俺を何と思ってるのかしら、と彼は心の中で考えみた。然しその考えは、子供の姿と少しもそぐわなかった。彼は考え直した、一体何を考えてるのかしら?――子供は玩具を持って余念なく遊んでいた。畳の上にちょこなんと坐って居た。白いエプロンが胸から真直に垂れて、膝が殆んどなかった。膝の上に物をのせてやっても、一寸身体を動かせばすぐに転げ落ちた。それでも、立ち上ると帯から下がすらりとしでいた。桜の花を渦巻きに散らしたメリンスの着物の下から、真赤な絹天《きぬてん》の足袋がちょこちょこ動いて見えた。
 家中の者が総がかりで、依子を退屈させまいとした。彼女の珍らしがる物はいくらもあった、床の間の香爐、兼子の手提袋、幾代の室の人形柵、庭の隅の桜や椿の花弁、空池の底の小石、玩具に倦きるとそんなものまで持ち出された。けれども晩になると、彼女は不思議そうに室の中を眺め廻した。皆からあやされてもいやに黙っていた。
「お母ちゃん!」と彼女は云った。
「え、なに? お母さまは此処に居ますよ」と兼子は云った。
「お母ちゃま」と依子は云った。それから頭を振った。
 依子はどうしても寝間着へ着換えたがらなかった。幾代や兼子がいくらすかしても駄目だった。しまいには泣き出した。幾代はそれを抱いて、室の中をよいよいして歩いた。次には景子が代った。依子は何時までもじっと眼を見開いていた。兼子はそれを背中に負《おぶ》った。電気に蔽いをして室を暗くした。余り長く黙ってるので覗いてみると、依子はもう眠っていた。安らかにつぶった眼瞼の縁に、ぽつりと涙が一滴たまっていた。
 幾代が抱いて寝ることになった。布団の上に寝かしても、依子はもう眼を覚さなかった。寝間着に着換えさしても、口をもぐもぐやるきりで、ぐっすり
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