しましょうか。」
「それでいいでしょう。」
彼は投げ出すように云い捨てた。早くそんな話は切り上げたかった。嫌な気がした。二人が座敷の方へ行くのを見送って、役は暫く佇んでいた。それから二階へ上った。
話の底にはまだ自分の知らない、嫌な事物や手筈やが潜んでるように、彼には考えられた。そして、自身がなきけなくなった。あの時もそうだったが、此度のことでも、彼の意志は殆んど何等の働きをもしなかった。彼がただ一人で考え込んでるうちに、外部からすらすらと事は運んでいった。そして彼はただその後についてゆくの外はなかった。なぜか? と彼は反問してみた。然し答えは得られなかった。……彼は長い間机につっ伏していた。そうだ俺はただ依子を愛してやろう、そう最後に考えた。依子の小さな姿が眼の前に浮んだ。今どうしているだろうかとしきりに気に懸った。階下《した》へ下りて行きたいのを我慢した。縁側の雨戸を閉める音が聞えた。終には堪えられなくなって、階段を下りていった。
依子は敏子の膝の上で、もう眠りかけていた。合さりがちな眼瞼をうっとりと開いて、はいって来た彼の顔を見上げた。淡い安らかな視線だった。然し彼はその頭を撫でてやろうという気も起らなかった。離れているとあんなに気に懸ったのが、眼の前にその姿を見ると、もう手を出す気も起らなかった。触るのが憚られるようだった。彼は自ら変な気持ちになった。その気持ちを掘り進んでゆくと、敏子へ余り拘泥しすぎてることに気付いた。……彼は敏子の顔を眺めた。敏子は落ち付き払って、それでも遠慮がちに、幾代や兼子と短い言葉を交わしていた。
「では、もう寝《やす》んだら宜しいでしょう。依子が眠そうだから。」と幾代はやがて云った。
「はい。」と敏子は答えた。そして子供の上に屈み込んで云った。「寝んねしましょうね。」
奥の六畳に床が敷いてあった。
皆が立って行った後に、彼は一人腕を組んで坐っていた。やがて縁側の雨戸を一枚開いて、庭へ下りていった。冷たい夜の空気が額を撫でた。空を仰ぐと細かな糠雨が、殆んど分らない位に少し落ちていた。植込みの影が魔物のように蹲っていた。何処からか射してくる淡い光りに、楓の若葉がほんのりと見えていた。彼は吸いさしの煙草をやけに地面へ叩きつけた。訳の分らない不満が心の中に澱んでいた。長い間歩き廻った後、彼はいつのまにか奥の六畳へ忍び寄っていた。雨戸の外から耳を傾けてみた。何の声も物音も聞えなかった。彼は更に耳を澄した。しいんと静まり返っていた。それでも彼はなお暫く佇んでいた――待ってみた。戸が開いて……敏子が……、そこまではっきりした形を取ると、彼は自分の不貞な空想に駭然とした。そうじゃない、俺は云い残したことがあるのだ! と彼は自ら云ってみた。然し不安は去らなかった。彼は急いで足を返した。けれどもなお庭を歩いていると、其処まで落ち込んでいった彼の頭には、過去の記憶がまざまざと浮んできた。檜葉の茂み、楓の幹、空池《からいけ》の中の小石、それらは皆闇に包まれていたが、それらにまつわってるあの当時の思い出がしつこく頭に浮んできた。然し俺は真に恋したのではなかった、兼子の方を本当に愛してるのだ、と彼は心の中で呟いた。その呟きの下からまた、先刻敏子に対して懐いた一瞬間の興奮を思い起した。彼は理屈に縋ろうとした。夜の燈下の下では、肉体の真の美よりも、肉体の一種のあくどさの方が、より強く男の心を惹きつけることがある。なぜならそれは、美意識を通じて働くのではなくて、直接情慾に働きかけるから。然しそんなのは、取るに足らないことだ、心に関係のないことだ。……そこまで考えた時彼は、なお一層不貞な自分の姿を見出した。その考えは、兼子をも敏子をも共に辱めるもののように思えた。彼は何処まで自分の心が動いてゆくか恐ろしくなった。急いで家の中にはいった。
茶の間へ行くと、兼子がぼんやり坐っていた。何かしら口を利かなければ、自分で自分が苦しかった。
「雨が降ってきたようだね。」と彼は云った。
「そう。」と彼女は気の無い返辞をした。
「この雨ではもう花も駄目になるだろう。」
彼女は黙っていた。
「明日《あした》書斎の花を取換えてくれない? もう凋んでしまったから。」
「水上げが悪かったのですかしら。」
「そうかも知れない。……ほんとに嫌だな。雨か曇りかが多くて。」
「なぜ? お出かけなさるの、明日は。」
「いや出かけはしない……。お前達こそ、これから依子を方々へ引張り廻わすつもりじゃないのか。」
「そのつもりですわ。」
「もう依子は寝たのかい?」
「ええ、先刻《さっき》。」
「一晩余計母親と寝られるので……。」
彼は云いかけてふと言葉を途切らした。兼子は顔を挙げた。眼が濡んでいた。睫毛の黒い影がはっきり見えるようだった。彼は黙って彼
前へ
次へ
全21ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング