云った。
「実は、私《わし》は敏子を連れ戻すために来たんだが……その手筈だったんだが、あの模様ではね。……まあ今晩一晩だけ泊《と》めてやったらいいだろう。幾代も兼子もそう云ってるんだから、お前もそのつもりでね。」
「いいようにして下さい。」と彼は冷かに云った。
瀬戸が帰ってゆくことは分かっていたけれど、彼は玄関まで見送りもしなかった。機械的に立ち上った足で、庭の中をまた歩いていると、向うの室に敏子の姿を見かけた。彼は一寸眼を見据えた。それからつかつかとはいって行った。
敏子は膝の上に子供を抱いて室の偶にしょんぼり坐っていた。彼の方をちらりと見上げて、また眼を伏せてしまった。彼ははいって来た縁側の障子を閉めた。閉め切ると、自らはっとした。電気の光りに輝らされてる四角な室、隅っこに顔を伏せている彼女、入口を塞いでつっ立っている自分、その光景が宛も、桂の中の野獣とその餌食とのように頭に映じた。……彼はまた障子を開いた。そして、その敷居際に腰を下した。
「寒くはないですか。」と彼は云った。
「いいえ。」と敏子は答えた。
彼は向うの言葉を待った。然し敏子は俯向いたまま何とも云い出さなかった。彼は心の中で言葉を探した。適当な言葉が見つからなかった。然し躊躇してるのはなお苦しかった。口から出まかせに云った。
「いろいろ苦労をかけて済みません。」
「いいえ。」と彼女は云った。落付いた調子だった。「私はこの子のために、ほんとに仕合せなことと思っております。」
そんなことを云ってるのではない、と彼は心の中で叫んだ。然しどう云い現わしていいか分らなかった。
「考えてみると、僕は何だか恐ろしい気がするけれど……。」
「私は安心しております。お祖母様もお……母様も、ほんとに御親切ですから。」
「僕もどんなに苦しんだか知れない。然し僕の意志ではどうにもならなかったので……。」
「いいえ、こうして頂けば、私は本望でございますもの。」
「随分苦しんだでしょう。」
「いえ、まだ何にも分かりませんから。」
そう云って彼女は子供の頭に頬を押しあてた。
彼は口を噤んだ。彼が彼女のことを云っているのに、彼女は故意にかまたは知らずにか、子供のことばかりを云っていた。彼は苛ら苛らして来た。少し露骨すぎる嫌な言葉だと意識しながら、ぶしつけに云ってやった。
「僕達二人のことは、もう何とも思ってはいないんですか。」
敏子は黙って彼の顔を見た。彼はその眼の中を覗き込んだ。然し何の意味をも読み取れなかった。彼は眼を外らして、庭の方を眺めながら、大きく溜息をついた。
「僕は依子を心から愛してやろう。」と彼は独語のように云った――そしてそれは実際独語だった。
すると俄に、此度は彼女の方から追っかけてくるのを、彼は感じた。冷かな清徹さに満ちながら曇ってる彼女の眼の光りは、急に、中に濁りを含んだ清らかさになった。彼はそういう眼の光りをよく知っていた。あの当時、彼女の清く澄んだ眼の中に現われてくる、その熱っぽい濁りを、彼は幾度も見て慴えたのであった。……彼は不安な気持ちになった。無理にしめくくられたような皺のある厚い唇、太く逞しい頸筋から上膊、厚ぼったい胴、皮膚がたるんでるような肌目の荒い肉体、それらが誘惑しかけてくるのを感じた。彼は我知らず身体を少し乗り出そうとした。するとその瞬間に彼女の眼はまた冷かに澄んだ曇りに返った。その曇りの底には、もはや何物も見て取れなかった。曇りながら冷たく澄みきってるのみだった。
彼は我に返って、心のやり場に困った。一瞬間前の自分が恥しくなった。そして、幾代と兼子とがいつまでも出て来ないのが、俄に気になりだした。罠を張られたのではないかという気がした。
彼は黙って立ち上った。障子をしめた。何とか云いたかったが、言葉が見つからなかった。敏子は子供を抱きながら軽く身を揺っていた。
「みんな何処へ行ったのかしら?」と彼は平気を装って云った。
座敷を出て茶の間を通り、玄関の方を覗いてみると、其処に幾代と兼子とが立っていた。
「どうしたんです?」と彼は怒鳴るように云った。
「一寸困ったことが出来ましてね。」と幾代は云った。彼女の云う所に依ると、昨日永井が瀬戸の家へ来て、約束の千五百円を求めた。瀬戸は一先ず五百円だけを与えて逐い帰した。然しこの金は直接敏子へ渡すべきだというので、今日残額の現金を持ってきて、幾代の手に托していったそうである。「それでも、」と彼女は云い続けた、「私から今すぐお敏へ渡すのも、あまり当てつけがましくってね。兼子さんとも相談していた所ですが、あなたはどう思います?」
「そんなことは出来るもんですか!」と彼は云った。
「そうでしょうね。兼子さんは、後で、お敏は明日《あした》の朝帰しますから、その後で届けたらと云っていますが、そう
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