寝込んでいた。
「寝坊な子ですわね。」と兼子は云った。
「昼間の疲れでしょう。」と幾代は云った。
 彼は幾度も幾代の寝床へ、依子の寝顔を覗きに行った。依子は変にちぢこまって眠っていた。
「これなら大丈夫だ。」と彼は云った。
「おとなしい子ですわね。」と兼子は云った。「そして大変悧口そうですよ。今朝いきなり、お祖母ちゃまだのお母ちゃまだのと云うものですから、喫驚しましたわ。勿論あの方《かた》が、よく教え込んで置かれたのでしょうけれど……。」
 四五日もすれば家の子になりきるだろう、と彼は思った。そしてすっかり馴れてしまえば、万事がよくなるだろう。
 然しその翌日、幾代が三田へ行っている留守中に、依子は俄に泣き出した。誰が何と云っても泣き止まなかった。初めは些細なことだった。女中がカステイラを二切皿に入れて持って来た。依子はその半分だけ食べて止した。「もう沢山ですか、」と兼子は尋ねた。依子は何とも答えなかった。「よかったらお食べなさい、」と兼子はまた云った。依子は黙っていた。それで兼子は、残りの菓子をあちらへ持ってゆかした。そしてまた玩具で遊ばせようとした。然し依子は身動きもしなかった。
「あらどうしたの、お腹《なか》でも痛いの、」と云って顔を覗き込まれると、彼女はくるりと向うを向いた。訳が分らなかった。兼子は試みにまたカステイラを持って来さして、手に掴らしてやった。依子はそれを放り出した。「あら、何かすねてるのね、」と兼子は云った。そして菓子を無理にその手へ握らせようとした。依子は執拗に頑張った。「すねるものではありませんよ、」と云われると、急にわっと泣き出した。何とすかしても泣き止まなかった。女中が背中に負って、表へ出てみた。いつまでもしくしく泣いていたそうである。
「どうしたのでしょう?」と兼子は云った。
「屹度、」と彼は答えた、「一つだけ食べて、一つは後まで楽しみに取っておくつもりだったんだろう。」
「そんなら、すぐにまたやったからいいじゃありませんか。」
「そうだね。」
 それ以上のことは彼にも分らなかった。恐らく子供に対する態度の違い、家の中の状態の違い、だろうとだけ想像された。彼は前に何度も母から聞いた話で、三田の家の内部を、敏子と依子との生活の有様を、推察しようとした。然し確かな大事な点は少しも分らなかった。
 三田から帰って来た幾代へ、彼は種々尋ねてみた。然し彼女はそんなことを何にも語らなかった。彼女は少からず憤慨の調子で、金のことを第一に述べた。
「私がお金の包みを出しますとね、お敏は手にも取らないで、これは永井へ渡してくれと申すではありませんか。こちらからわざわざ届けてやった心が、少しも通じないのです。瀬戸さんの考えや私達の思いやりを、くわしく云ってやりましても、お敏は黙って俯向いたきりですもの。私はも少しで持って帰ろうかと思いました。」幾代は暫く言葉を切って、彼と兼子との顔を見比べた。「けれども、そうしないでよござんした。やはり瀬戸さんの仰有る通りでしたよ。とうとう無理に受取らせることにして、この中に千円あるから一応あらためて下さいと云いますと、え千円! と喫驚したような顔をしました。で私は、五百円は瀬戸さんから永井へ渡してあるので、これで丁度お約束の金高だと云ってきかせますと、千五百円! とまた喫驚してるではありませんか。よく聞きますとね、あれは全く永井のたくらみだったのですよ。お敏はただ、これから小さな煙草店でも出すつもりで、四五百円の補助を受ければよいと思っていたそうです。毎月三十円のうちから貯金もだいぶしているらしいのです。そんなに沢山頂いては済みませんと、なかなか受取ろうとしませんでした。瀬戸さんからの五百円だって、まだ永井から貰っていないのですよ。」
 その話を聞きながら、彼は別に憤慨をも感じなかった。それ位のことはありそうだと、前から知っていたような落付を覚えた。幾代が今更怒ってるのが、可笑しいほどだった。それよりも彼は、敏子自身のことを、出来るならば依子が居た当時から其後のことを、悉しく聞きたかった。然し幾代は金のことにこだわっていて、最初の時のような話し方をしなかった。彼女は時々、少しずつ、話してきかした。その上、そんな事柄は彼女の頭に深く残ってもいないらしかった。――依子がお父ちゃまだのお母ちゃまだのと云ってるという話を敏子は大変喜んだということ、そして敏子は余り依子の其後の様子を聞きたがらなかったということ、その二つだけが彼の心に印象を与えた。
 幾代は帯の間から小さな金襴の袋を取出した。中には鬼子母神の守札がただ一枚はいっていた。敏子が云いにくそうにもじもじしながら、これを依子の肌につけてくれと頼んだそうである。――然しなぜか、その守札は仏壇の上に乗せられたままになった。
 俺は……
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