、また大儀そうに眼瞼を閉じた。
 病気に違いなかった。そう思うと、急激な病気に違いないという不安が高まった。彼は検温器を持って来て測った。熟は案外にも八度三分に過ぎなかった。念のためにも一度測ったが、やはり同じだった。険しい息使いももう静まっていた。ただ脈が非常に速かった。そして全体がぐったりしていた。
 彼と兼子とは着物に着換えてきた。そして枕頭についていた。いつまでたっても、依子はすやすや眠ってるらしかった。起きていても仕方がなかった。依子の三方に床を敷いた。裾の方に幾代が寝、彼と兼子とが左右に寝た。
 彼はどうしても眠れなかった。眠れないと意識すればするほど、益々眼が冴えてきた。無理につぶった眼を開くと、兼子がじっとこちらを見ていた。二人の間には少し下手寄りに、依子の房々としたお河童《かっぱ》さんが、夜着の白い襟から覗いていた。彼は眼を閉じた。暫くして眼を開くと、兼子がまたこちらを見ていた。然し瞬間に彼女は眼瞼を閉じた。彼はその顔を見つめた。淡い電気の光りを受けた顔は、蝋のようにだだ白くて艶がなかった。一種の陰影が眼の凹みと口元とに深く湛えて、細そりとした頬をすっと掠めていた。高い鼻筋と細い眉とが、淋しいほど清らかだった。乾いた薄い唇が、色褪せてきっと結ばれていた。彼はそういう顔を、今初めて見るかのようにじっと見つめた。彼女は彼の視線を感じてか、静かに寝返りをした。彼は眼瞼を閉じた。
 眼瞼のうちに、種々なものがまざまざと見えてきた。兼子のこと、依子のこと、幾代のこと、敏子のこと、また自分自身のこと――彼も亦今見た兼子の顔と同じように、窶《やつ》れた淋しい顔をしてるに違いなかった。彼はそれらの映像を眼瞼のうちに見つめながら、果してこれでいいのかと考えた。皆の生涯を――運命を、よいようにと希望しながら、茲まではまり込んでしまったのだ。然しこれは一時の経路なのだ、これを通り越せば凡てよくなるだろう、と彼は考えてみた。それには先ず第一に、依子の病気を治さなければならなかった。
 彼はそっと手を伸して、依子の額に触ってみた。所がその触感を知る前に、彼はぎくりとした。依子がぱっちり眼を見開いた。依子は天井を見つめていたが、俄に叫びだした。
「お母ちゃん、お母ちゃん!」
 彼と兼子とは突嗟に起き上った。幾代も起き上った。然しその時にはもう、依子は眼を閉じてうとうとしていた
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