いた――ここの所は敏子そっくりだ、と彼は考えた。然し口へは出さなかった。
「さあ、お父《とう》ちゃまに抱っこしてごらんなさい。」と兼子は云って、彼の腕へ子供を渡そうとした。
彼はそれを一寸抱き取って、すぐ下に下した。しなやかな小さな両腕、円っこい弾力性の胴体、それがずっしりとした重みを持って、足だけが妙に軽やかだった。その軽い足で子供は向うに駈けて行こうとした。不安だという気が彼に起った。彼は俄に子供を捉えて、また胸に抱き上げた。子供は軽い足だけをばたばたやった。いつのまにかべそをかいていた。
この小さな存在は、一体俺を何と思ってるのかしら、と彼は心の中で考えみた。然しその考えは、子供の姿と少しもそぐわなかった。彼は考え直した、一体何を考えてるのかしら?――子供は玩具を持って余念なく遊んでいた。畳の上にちょこなんと坐って居た。白いエプロンが胸から真直に垂れて、膝が殆んどなかった。膝の上に物をのせてやっても、一寸身体を動かせばすぐに転げ落ちた。それでも、立ち上ると帯から下がすらりとしでいた。桜の花を渦巻きに散らしたメリンスの着物の下から、真赤な絹天《きぬてん》の足袋がちょこちょこ動いて見えた。
家中の者が総がかりで、依子を退屈させまいとした。彼女の珍らしがる物はいくらもあった、床の間の香爐、兼子の手提袋、幾代の室の人形柵、庭の隅の桜や椿の花弁、空池の底の小石、玩具に倦きるとそんなものまで持ち出された。けれども晩になると、彼女は不思議そうに室の中を眺め廻した。皆からあやされてもいやに黙っていた。
「お母ちゃん!」と彼女は云った。
「え、なに? お母さまは此処に居ますよ」と兼子は云った。
「お母ちゃま」と依子は云った。それから頭を振った。
依子はどうしても寝間着へ着換えたがらなかった。幾代や兼子がいくらすかしても駄目だった。しまいには泣き出した。幾代はそれを抱いて、室の中をよいよいして歩いた。次には景子が代った。依子は何時までもじっと眼を見開いていた。兼子はそれを背中に負《おぶ》った。電気に蔽いをして室を暗くした。余り長く黙ってるので覗いてみると、依子はもう眠っていた。安らかにつぶった眼瞼の縁に、ぽつりと涙が一滴たまっていた。
幾代が抱いて寝ることになった。布団の上に寝かしても、依子はもう眼を覚さなかった。寝間着に着換えさしても、口をもぐもぐやるきりで、ぐっすり
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