でも投げつけられたような心地がした。馬鹿々々しかった、さりとて笑えもしなかった。彼は頭を振った。俺は敏子のことは何とも思ってはしない。あの時だって真面目な心の動きはなかったのだ、そう自ら云ってみた。然し……その「然し」から先を彼は無理に頭の外へ逐いやった。
 家へ帰ると、彼は兼子の顔にじっと眼を据えた。兼子は彼の方へ寄り添って来た。そして彼の手を執りながら、「あなた!」と一言云った。
 これですっかりいいのだ! と彼は考えた。その晩はいつもよりなおよく眠れたような気がした。朝起きると空が綺麗に晴れていた。それを眺めていると、涙ぐましい心地になった。依子、依子! そう心にくり返すことが嬉しかった。それは瀬戸の伯父がつけてくれた名前だった。
 家の中には急に種々なものが増《ふ》えてきた。幾代と兼子との夢想は実現されていった。兼子の身体も肥ってきたようだった。彼女の膝の前には、美しい友禅模様の布が並んだ。彼女と幾代とは、新しい玩具をいじっては微笑んでいた。彼も時々その仲間にはいった。幾代は二度ばかり三田へ行った。その度毎にいい子だとほめていた。
 それでも、影のような不安が、彼の心をふと掠めることがあった。凡ては未解決のまま単に通り越されたのみだった。兼子の病気と手術と不妊との問題、依子の運命の問題、彼と兼子と依子と敏子との今後の心的交渉の問題、それらが表面上は解決された形になりながらも、彼の心のうちでは少しも解決されたのではなかった。ただ次から次へと移り変っていったのみだった。と云って、それは解決される問題でもなかった。凡ては未来に懸っていた。それを考えると彼は、現在の立場が悉く幻ではないかというような、はかない不安な気持ちになった。それならばどうしたらいいのか? どうといって仕様はなかった。ただ未来を信じて進むのだ。思い切って凡てにぶつかってゆくのだ。
 そしてぶつかる日は早く来た。
 未明に少し雨が降った薄曇りの日だった。彼は二階の縁側に立って、庭の隅の薄赤いものをぼんやり見ていた。乙女椿の花だということに自ら気付いたのは、暫くたってからであった。彼は眼鏡をかけるのを忘れていた。慌てて眼鏡を取って来て、また椿の花を見直した。――其の日の午後、依子は家へ連れられてきた。
 兼子は、敏子自身で依子を連れてきてほしいと希望した。敏子は、そんな厚かましいことは出来ないと云っ
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