それでいいだろうか? 理由はなしにただ否という気持ちが、心の中に湧き上ってきた。彼女はそれを見て取ったらしかった。
「おかしいわね。あなたはどうしてそう急に子供がほしくおなりなすったんでしょう?」
「子供がほしいんじゃない。」と彼は答えた。
「そう。では私達にかぶれなすったのね。」
然し彼女の眼はその言葉を裏切っていた。揶揄するような小賢《こざか》しい光があった。嫉妬してはいけない、と彼は心の中で彼女に云った。そして、自分の子でないという焦燥を彼女の心に起させるのは、最もいけないことだと思った。彼は口を噤んだ。彼女も口を噤んだ。互に相手が何か云い出すのを待って、二人はいつまでも黙っていた。
彼は一度、三田行の電車に乗ってみた。別に依子に逢いたいという気でもなかった。早く決定しなければ堪らないと思った。幾代と兼子とが、既に決定したもののように先のことばかり考えてるのを見ると、彼は現在の不決定な状態に益々苛立った。電車の中に、乳母らしい女に負《おぶ》さってる二歳ばかりの女の子が居た。手に一枚の塩煎餅を掴んで、鼻汁を垂らしていた。粘っこい眼付で彼の方をじろじろ眺めだした。彼は不快な気持ちになって、遠くへ席を避けた。然しそのことが更に不快な気持ちを煽った。彼は電車から下りて、真直に家へ帰ってきた。
一日も早く解決しなければいけない、と彼は執拗に同じ考えをくり返した。然し自分から進んでどうするという方法はなかった。
そこへ瀬戸の伯父が、向うの返事を齎してきたのだった。彼は女中から知らせを受けて座敷へ飛んでいった。幾代と兼子とが、ちらと眼を見合して彼の方を顧みた。彼は反抗的な気持ちになって、わざとらしいほど丁寧に伯父へお辞儀をした。
「思う通りになったよ。」と瀬戸は云った。
「そうですか。」と彼は冷淡な返辞をした。
「但し条件づきでね。」
条件というのは、庶子の認知と千五百円の金とだけだった。
「簡単なことだから、私《わし》が独断で承知して置いた。お前にも異存はあるまいと思って。」
「ええ。」と答えながら、彼は瀬戸の顔を見つめた。「そんなことをとし[#「とし」に傍点]が云ったのですか。」
「いや、永井が代理に来てからの話さ。」
彼は眉をしかめた。不意に泥の中へ足を踏み込んだような気がした。話は幾代と敏子との間の穏かなものだと、彼は考えていた。少くとも幾代が自ら出かけ
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