ょうか。でも実は、あたしたち自身、お友だちなんかもみな、昔とは違った考え方をしておりますし……。」
それはつまり、親と子の関係、殊に母親と子の関係についてだった。子供というものは、育て上げて結婚させてしまえば、もう母親のものではなくなる。息子は嫁のものになってしまうし、娘は夫のものになってしまう。後々までの頼りにはならない。頼りになるのはただ自分だけだ……。
それはそれでよいし、寧ろ当然なのだ、と田宮は思った。それにしても、境遇により、家庭の事情によって、五十を過ぎてから、六十や七十にもなって、よその家の女中働きに出なければならないというのは、惨めなことに違いなかった。KさんやNさんやFさんや、その他の婆さんたちの姿が、眼に浮んだ。
原始林の中をさまよっても、そこには齷齪したトラブルは少しもなかった。伸び茂るもの、立ち枯れるもの、他物に絡みつくもの、みな自然にそうなっていた。争いも抵抗も見られず、全体に連帯性的な調和があった。その中にあって、嘗ての老婢たちのことなどを、どうして思い出すのだろうか。田宮はやたらに歩き廻った。歩き疲れると、湯につかった。
廊下続きの別棟に、百畳余りの広間があった。舞台めいた高壇には、二抱えほどもある自然木の巨大な柱が四方に立っていた。その広間の真中に寝そべって、高い天井を仰いでいると、森の中にいるよりは一層淋しく、心許無い気持ちになった。人事の幽鬼の影がさしてくるからだったろうか。
なにか、暴風雨とか激しい雷鳴とか、天地を揺ぶるようなものを、田宮は待ち望んだ。然し、穏かな日が続いた。
時とすると、空の半面を黒雲が蔽うこともあった。湖畔に出て様子を窺ったが、いつも当が外れた。黒雲は燕巣山の方面から四郎岳の方面にかけて屯していたが、風は反対の方から吹き、徐々に晴れていった。
湖面に吹きつける風は、長い息をついた。さーっと波頭を立てておいて、すぐに静まり、暫く間を置いて、思いがけない時にまたさーっと来た。方向も一定せず、右からも吹き左からも吹いた。水面の波頭がぶつかり合って渦巻くこともあった。
そういう渦巻きの中に、どこから舞い落ちたか、一枚の黄ばんだ木の葉が浮いていた。ゆるく廻り、また静止し、また廻り、いつとなく沖の方へ吹きやられていった。それを田宮はじっと眺めていたが、次第に小さくなり見えなくなる頃になって、はっと心を打たれた。久子、と思わず胸の中で呼んだ。
彼女は最後に、朝から終日、そして殆んど徹宵、次の日も終日、徹宵して、さまざまなことを繰り返し田宮に訴えた。
「大きな渦巻きの中に巻き込まれたような気持ちです。もう何もかも訳が分らなくなりました。ただ穢らわしい。腐ったような臭気には堪えられません。お別れしましょう。」
そしてその翌日、彼女は毒を仰いで自殺をはかった。幸なことに、その毒薬が、遮光の着色壜にでなく、普通の硝子壜に長年月の間入れられていて、可なり変質していたため、充分に利かず、彼女は生命を取り留めることが出来た。
綾子が亡くなってから一年後のことだった。綾子は山吹の花が散ってしまってからまだ二ヶ月半ばかり生きていた。その間彼女は、年齢の差から見れば母親とも姉とも言えない久子を、母のようにも姉のようにも頼りにした。そして彼女の死後、久子は看護婦に先立って死体の始末をし、田宮の親戚の者に先立って葬儀を取り計らった。だが、その後の一年間がいけなかった。
渦巻きとは何であったか。嫉視、反感、阿諛、利慾、その他さまざまなものが入交った告げ口、真偽とりまぜたものに尾鰭をつけ色合を変えた密告で、人の世の最も浅間しい姿だった。久子が聞かされた事柄の概略を順序不同に列挙してみよう。
A女――田宮さんてずいぶん冷酷なかたね。久子さんはどこといって取り柄はないが、ただ僕を慕っていてくれるから、突っ放すのも気の毒で、先方から倦きるまで、まあそっとしておいてやってるんです、とそんなことを、はっきりは仰言らないが、それとなくあたしに匂わせなすったことがあります。邪推をすれば、むしろあたしの方に気がおありなさるようにも、取れるじゃありませんか。
B男――田宮君にくっついていられると、きっと不幸な目に逢いますよ。彼は性格的に、ひとを愛することは出来ません。もし愛するとしても、自分自身をしか愛しはしません。それに、あなたのように、ただ向う見ずで一徹なだけで、センスの乏しいひとは、田宮君との仲が長続きはしませんよ。
C女――田宮さんはこないだ、晴子さんのことをたいへん誉めていらっしゃいましたよ。しとやかで、やさしくて、ほんとに女らしいひとですって。あなた、晴子さんにお逢いなすったことがありますか。あたしは晴子さんてかた存じませんけれど、でも、あのかたはひとの奥さんでしょう。ひとの奥さんを、あ
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