山上湖
豊島与志雄

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 十月の半ばをちょっと過ぎたばかりで、湖水をかこむ彼方の山々の峯には、仄白く見えるほどに雪が降った。翌日からは南の風で少し温く、空晴れて、宵に大きな月がでた。
「まあ、きれいな月……。外に出てみよう。」
 誘うともなく、誘わぬともなく、言いすてて、私は外套をまとい、スカーフを首に巻きつけた。
「ちょっと待って。これで大丈夫かな。」
 寒くはないかという意味なのだ。シャツの上に湯上りと丹前を重ねただけの平田は、あわてて、ジャケツを着、帯をしめ直し、合のオーバアを肩にひっかけて、私のあとについて来た。
 そんなこと、なんでもないことなのだが、今では、私の気にさわるのだ。月夜の湖畔のそぞろ歩き、それも二度と出来るかどうか分らない私達ゆえ、出かける時に、それにふさわしいしっとりした言葉のやりとりが、感情の照応が、あってもよい筈だった。私の方もわるいけれど、平田の方がなおわるい。外に出てみようと言う私へ、ただ犬のようについて来るだけではないか。第一、身なりが見っともない。私はお風呂の後でも、寝るまでは服装をきちんと整えているのに、平田の方は、この旅館に着いたその日から、湯上りと丹前姿で、あぐらをかいて酒を飲んでいる。落着いていると言えばそれまでだが、思いつめているのとは違うようだ。追手が来たら、のこのこ連れ戻されるだろうし、さあこれからすぐに、と私が言ったら、殆んど無関心に、つまり無意味に、一緒に死んでくれるかも知れない。そんなのは、思いつめてるんじゃない。思いつめてるのだったら、積極的に、私を死へ誘う筈だ。
 いいえ、私はもう一緒には死なない。その代り、月夜の湖畔の散歩には、連れてってあげる。
 停電のあとで電燈がついたような、ぱっと明るい月夜だった。旅館の前は広場で、この山間を走ってるバスの事務所があるが、それはもう閉め切ってあり、旅館は一つだけで他に人家もなく、人の姿は全然見えず、暗い木立の向うに、湖水がきらきら光っていた。
「わりに暖いね。」
 丹前の肩からずり落ちそうなオーバアの、胸の釦を一つ平田はかけている。物を考える人の姿じゃない。
 私はスカーフの中に深々と、頬まで顔を埋めて、ゆるい斜面を湖水の方へ下っていった。道路からそれて、湖岸の砂地に立った。冷々とした空気が湖上から流れてくる。
 平田は煙草を取り出して、私にも一本すすめた。ライターの火が螢の光りほどに淡く見える。その明るさの中で、湖面の漣が白銀色に躍り跳ねている。彼方は茫とかすんで、湖中に突き出てる半島にかかえられて、幾つかの灯がある。湖岸のバス道路を一里ばかり行ったところにある小さな町だ。

 町といっても、この湖水の神社を中心にして、宿屋や店屋が数十軒並んでる部落にすぎない。三日前、私達はそこへ行ってみた。私としては、もしこの湖水が死所となるなら、この湖水の神社というものも見ておきたかったのである。
 神社は普通の、むしろさびれたものだった。ただ、紅葉の季節なので、観光客が雑沓していて、興ざめの感じがした。トラックで乗りつける団体などもあった。――私達は迂濶だったのだ。山上の幽邃な湖水ということだけを当にして、紅葉の季節ということを忘れていた。けれども遊覧の客が多いほど、却って人目につかないかも知れないし、いよいよだめなら、逃げ出すだけのことだと、ひそかに考えもした。
 神社の裏手に、嶮しい登り道がある。岩角や木の根を頼りに、匐うようにして登ってゆく。ずいぶん遠い。木立が深くて見通しは利かない。ふいに、断崖の上に出る。下に何があるのか、覗き見ることも出来ない高い絶壁で、鉄の梯子がさがっている。若い人たちが昇り降りしていた。
 その鉄の梯子から少し離れた横手に、私達は腰を下した。断崖の中途に生えてる大木の梢が、すぐ眼前にある。真下は深い淵らしい。その深淵が更に深々と広がって、濃藍色の湖面となり、漣もないほど静まり返っている。こちらは湖中に突き出た半島で、対岸もやはり半島。半島の山には、針葉樹が多く、闊葉樹は紅葉し、代赭色の岩肌が絶壁の中に散見される。それらが、とろりとした湖面に影を落している。その辺の湖心の深さ、三百五十メートルほどもあり、水の透明度は高く、しかも美しい藍色なのだ。
 私は身をずらして、断崖の縁のところまで出た。
「危いよ。」と平田は言った。私は彼の眼を見返した。彼も私の眼を見たが、すぐに視線をそらした。
 細い灌木の幹を、私は片手で握っていた。身内がぞくぞくして、もし手を離したら墜落するかも知れなかった。だけど、真昼間、すぐ人目につくところで、身投げなどするものか。
「大丈夫よ。今は。」
 こちらを向いた彼の眼へ、私はまた言った。
「一人じゃ、いや。」
「分っている。僕も一人きりになるのはいやだ。危いから、こっちへおいでよ。」
「じゃあ、どうするつもりなの。」
「あとで、ゆっくり相談しよう。」
 なにをまだ相談することがあるのかしら。約束した筈ではなかったか。私がじっと見つめていると、彼は言い直した。
「もっとよく、考えてみよう。」
「生きること? 死ぬこと?」
「どちらだって、同じだよ。分ってるじゃないか。さあ……。」
 差し出された手には縋らないで、私は崖縁から身を退いた。
 そして立ち上った。
「ばかね、あなたは。わたしがここから飛びこむとでも思ったの。」
「思やしないよ。」
「思ったでしょう。」
「そんなこと思わないから、危いと言ったんだよ。」
「では、あやまって落っこったら。」
「ほんとに危い。」
「ほんとに危い。……」と私は繰り返してみた。
「もう行こう。」
 なんという愚かな会話だったろう。私はもう彼をからかうのはやめようと思った。彼はへんに憂欝になったらしい。首垂れて、黙って、坂道を下っていった。

 バスの停留所では、二時間ばかり待たねばならないことが分った。面白いこともないし、湖岸の道をぶらぶら歩くことにした。
 雲が次第に多くなり、そして雲行きはけわしくなった。旅館まで半分ほど来たかと思われる頃、雨が降りだした。木陰によけた。それから歩きだすと、やがてまた雨になった。杉木立にかこまれた稲荷堂に雨宿りした。雨がやんだので、急いで帰りかけると、ちょっと雷鳴がして、こんどは可なりの雨となった。避難の場所が見当らなかった。大木の陰も雨雫で同じことだ。濡れながら行くと、野の中に、屋根だけふいてある四方開け放しの小屋があった。その中に飛びこんだ。木片や藁屑があったから、焚火をした。
 それほど寒くもないのに、平田はへんに震えてるようだった。やたらに木片を火にくべて、ぱっと燃え立つと、嬉しそうに手をこすった。
「ああ、これで助った。」
 雨は強く、その中での小屋の焚火は、悲しくて美しかった。私の心は躍った。平田は私を抱きしめてくれるだろう。熱いキスで息をつまらせてくれるだろう。いつまでも私を離さないだろう。けれどもそんなことは、少しもなかった。彼は煙草を吸うのも忘れて、上衣やズボンをしきりに乾かしてばかりいる。私は焚火の焔を見つめながら、佗びしい思いに沈んでいった。そこから浮び出るようにして、あたりを見廻わすと、雨脚の廉ごしに、つき立った山腹が見える。全山紅葉だが、赤色から黄色にいたる色どりがぼーっとかすんでいる。私の眼もかすんできて、泣きたくなった。
「なにをぼんやりしてるの。服を乾かしてごらん。ほら、こんなに湯気がたってきた。」
 彼の服からはほかほかと湯気がたっていた。けれど、そんなことはどうでもよいのだ。靴の中がじめじめしてるのが、服の濡れたのよりは、私には気になる。靴の中のじめじめよりは、心の湿っぽいのが、一層悲しいのだ。
 心情がぼんやりしてるのは、私よりもむしろ彼の方だったではないか。あの山腹の上の方、あすこの峠を、バスは通ってきた。峠の上で、バスは止って、乗客に下車を許すのである。そこで突然に眼界が開けて、湖水が一望のうちに俯瞰される。四方を取り巻いてる山々の中に、二つの半島を抱いて、湖水は青々と深々と広がっている。対岸は茫とかすんでいるが、近くの山々や半島は、黝ずんだ針葉樹林をちりばめて、眼がさめるほどの鮮かな紅葉である。
 私は身も心も硬直する思いをし、とっさに平田を顧みた。
「ほう。」ただ一言、それも殆んど感情のこもらぬ歎声を発して、平田は前屈みに、あちこち頭を動かして眺めている。私には何とも言ってくれないし、どこかを凝視するのでもなく、呆けたように視線をばらまいているのだ。
 その時から、私が期待していた心の的は、どこか遠くへ消えていった。山上の湖水の清冽な空気が、平田には強すぎたのであろうか。それとも、男とは、四十すぎの分別男とは、そういうものなのであろうか。旅館が遊覧客で混み合っているのもいけなかったかも知れない。然し私達はわりに静かな室に案内された。泊り客が少くひっそりしていたとすれば、どうだというのだろうか。平田はへんに情熱を失っていた。東京から二十時間足らずの汽車の旅に、疲れるほどのこともあるまい。前夜は山の下で、ゆっくり眠ったのである。そして湖畔の旅館では、酔ってうっとりしてる彼を、ああ、恥しくも私の方から揺り起した。彼は俄に年老いたようだ。年老いて愚かにさえなったようだ。あの精気と智慧とはどこへ行ったのであろうか。
 月光はいくら明るくても、少し遠くの物のけじめはなかなかつき難い。湖岸からでは、ここへ下りてくる峠道はどの辺か、見定められないし、雨宿りして焚火をした小屋など、見当もつかない。
「あの小屋は、どのあたりになるかしら。」
「そうだね、遠くない筈なんだが。」
 見えないことは私には分っていた。こんもり茂った木立の彼方、少し引っ込んだところにあるのだ。それを平田はしきりに物色している。
「月の光りでは、紅葉はだめね。」
「そう、色が消えてしまう。」
「赤いのから、黄色いのへかけて、いろいろあるわね。あれ、葉っぱの性質によるのかしら。」
「さあ。植物学者に聞いたら分るかも知れないが……。」
 それきり、私は黙りこんでしまった。もっと気のきいた返事はないものかしら。植物学者……はことにひどい。以前の平田は、こんなとき、詩人らしい楽しい返事をしてくれたものだ。そして私は彼と、どんなつまらないことをどんなに長く話しても倦きなかったのだ。ここに来て、確かに彼はどうかしている。熊の彫り物のせいだろうか。
 あの神社の前の土産物店に、いろいろな品に交って、熊と蟇の木彫があった。平田はそれを長い間眺めていた。そして旅館に帰ってから、増築中の仕事場からであろうか、木目の美しい木片を一つ拾ってきて、ナイフで熊を彫りはじめたのである。
 神社のところまで行っただけで、私は遠くへ外出したくなかった。湖水には、毎日遊覧船が出ていたが、それにも乗りたくなかった。どうせ、何々の岩とか、何々の松とか、何々の浦とか、何々の島とか、そんなものにきまっている。彼方の対岸には、山水や湧水を湛えてる八十平方キロに近いこの広い湖水の水を、ただ一方の口から流出さしてる急湍があるけれど、それも見に行く気がしなかった。普通の溪流とさして変りはないだろう。他には大して見物するところもないようだ。私はただ旅館の近くをぶらついた。平田も、私を一人残して遠くへ行きたがらず、近くをぶらつくだけで、その他の時間は、新聞をかりてきて丹念に読むか、熊の木彫かだ。どうして熊なんか彫る気になったのだろう。外にする仕事がないからだ、と彼は言った。詩を作ることも面倒くさくなったのかしら。毎晩、濁酒を飲んだ。
 彼は詩人なのだ。私立大学の語学教師をし、外国の詩を日本語に飜訳したりしていたが、本当の仕事は詩作にあった筈だ。私は彼の詩の純粋無垢な情緒に心を抉られた。その詩作はどうなったのだろうか。

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