そこまで尋ねることは、私には恐ろしかった。私自身、ひそかに手に入れた毒薬を、カバンの底に秘めている。彼もたぶん、毒薬をどこかに秘めてることであろう。私達は互に、そのことをおぼろに感じながら、あらわに打ち明けはしなかった。服毒入水、それが最も気安いと、熱い抱擁のうちに嘗て囁き交わしたことがある。
けれども、生きるも死ぬるも一緒だと誓い合っただけで、死をはっきり覚悟してるわけではなかった。外部の事情だけが切迫していた。私と平田とのことを感ずいた私の夫は、他の女に二人も子供を産ませ、戸籍には私との間に出来たものだと届けておきながら、私の恋愛を厳しく訊問した。私は潔白だと言い張った。夫は更に激怒して、もし潔白でなかった場合には、誰彼の用捨なく相手を殺してやると威嚇した。男の面子とやらいうものであろうか。ほんとに殺しかねない夫の性格を私は知っている。平田の方にも妻子がある。その妻は彼の恩師の娘なのだ。事が表立てば、彼は学校をも世間体をもしくじるだろう。而も既に、私達の仲は知人間に噂が高い。その上、私も彼も無理な金策をしており、その点でも破綻しそうになっている。私の夫が旅行に出たのを幸に、私と平田はこの湖畔に逃亡してきた。前後の見境いはなかった。
こうした場合、彼に命がけの詩作を求めるのは無理であろうか。然したとい詩は出来なくとも、心は、精神は、詩の中にあってほしかった。それが、熊の木彫での時間つぶしとは、どうしたことであろう。
砂地に横たわってる大きな朽木に、私は腰を下して、両手に額をもたせた。掌も額も冷たい感じだ。ひたひたと、足先の岸べにかすかな水音がする。平田はそこいらを歩き廻っていた。近くに来て、ふいに私の名を呼んだ。
「美津子さん。」
私はじっとしていた。
「美津子さん。僕は人生がつまらなくなった。何もかもばかばかしく思われる。どうしていいか分らないんだ。ねえ、お願いだから、こうしろとか、ああしろとか、何とか言ってくれない。どんな些細なことだって、大きなことだっていい。君の言う通りにする。」
私は顔を挙げた。彼は月の光りを斜め後ろから受けて、影法師がつっ立ってるようにも見える。
私は言葉を出しかけてやめた。彼の名を、平田さんではなく、良彦さんと、ただ呼んでみたかったのだ。そして泣きたかった。けれど、なにか冷りとするものに心が鎖された。私は孤独なのだ。
彼はまったく、私の言う通りになるだろう。私が黙って歩きだせば、私のあとについて来るだろう。湖水の中にすっとはいってゆけば、深い底までもついて来るだろう。そう私は感じた。そしてそのことが、月光の中で、私を孤独にした。
私は立ち上って歩きだした。彼はすぐ後ろについて来た。
掛け網が幾つも並んで、木に渡して干してある。そのわきに、高い木梯子が、櫓のように立っている。添木でとめて地面に定着さしてある。魚見の櫓だ。ここは姫鱒の人工養殖所で、孵化した稚魚を湖水に放流すれば、育った親鱒は三年後に、その回帰性によって、放流された場所へ産卵に戻ってくる。群れをなして戻ってくる。その魚群の到来を見極める魚見の櫓だ。
その梯子へ、平田はこないだ、数段だけよじ登ったことがある。何も見えないと、すぐに降りてきた。
梯子は夜空に白々とつっ立っている。
私は立ち止り、じだんだふむような気持ちで言った。
「あれに登ってみて下さらない。いちばん上までよ。」
彼は怪訝そうに私の顔を見た。
「自分で登りたいんだけど、危なっかしいから、代りに登ってみてよ。」
「そんなこと、何の役にもたちゃあしない。」
「ためすのよ。自分の勇気をためすのよ。あなたの勇気をためすのよ。」
「勇気なんかいりゃあしないが……。」
彼はちょっと考えたが、肩にかけてるオーバアをぬごうとした。
「もういいの、いいのよ。」私はあわててとめた。
梯子のそばをぬけて、道路に出た。
道路の片側に、小さな溝があり、養魚池から来る水がちょろちょろ流れている。この僅かな水流にまで、鱒はさか上ってくることがある。湖水にそそぐ土管をくぐり、瀬を跳ねあがり、窪み窪みを辿って、浅いところは背中を半ば出して砂上を匐うように泳ぎ、産卵のためにさか上ってくる。そういう一匹を私は見つけた。それは本能からであろう。無我夢中でもあろう。然しなんという勇敢な積極的なことか。それは恋愛をする女性の姿だ。
私はもう、恋愛をしていないのであろうか。
男性はどうなのか。平田はどうなのか。
「鱒を見にいきましょう。月の光りで見たら、どんなかしら。」
道路から少し上ったところに、コンクリート造りの池が幾つも並んでいる。春夏は鯉や鮒が飼ってあるそうだが、秋には姫鱒がいっぱいはいっている。産卵に戻って来るのを、地引網で捕えて、雌雄よりわけて放ってあるのだ。上方から順次に山水が流れ落ちている、その水流に逆らって、群れ静まっているが、些細な物音や物影にも、ぱっと乱れ散って渦を巻く。
私達は足音を忍ばして近づいたが、池のそばに植えてある桜の立木に月光が遮られて、よくは見えない。眼が馴れてくると、池の中には黒いものが縦横に動乱しているのが分った。やはり足音か人影かに驚いたのであろう。三年以上の親鱒は、肌や鰭に赤みを帯びているのだが、木立をもれる斑らな月光では、ただ黒々と見える。しばらく静かに拝んでいると、魚も寄り集まって静かになる。少しでも身動きすれば、ぱっと散る。なんという敏感なことか。
私達は順々に池を見ていった。
「昼間と同じだね。」
私が黙っていると、平田はまた言った。
「どの池も同じだね。」
いいえ、違う。私はそのことを知っているのだ。昼間とは色も感じも違う。それはともかく、池の形はみな同じでも、中のものはたいへんな違いだ。私はそれに突き当って、もう魚の姿は求めずに、ただ水面に視線を据えた。私は人工受精の作業を何度も見た。上方の建物の中で、毎日行われている。
池の水を半ば切って落し、手網で魚をすくい取り、池に浸してある竹籠に入れる。籠の中の魚は、一匹一匹手掴みにして、腹中の卵が検診される。雌鱒の池のことだ。卵が成熟しておれば、ちょっと腹をしぼると、赤い卵が一粒ずつ放出される。そういうのだけが作業に堪えるのだ。棒切れで頭部を叩けば、魚は痙攣して生態の機能が止まる。それをブリキ箱に一杯並べ、作業場へ運ぶ。直ちに腹を裂いて、卵だけ取り出し、瀬戸引きの鉢に移す。
作業場の小さな水槽には、池から捕えられた雄鱒が群れている。それを一匹ずつ手掴みにして、腹をしぼり、放出する白い精液を、赤い卵のはいってる鉢に注ぎかける。用済みの雄鯵は、他の水槽の中に投げ込まれる。そして鉢の中を攪拌すれば、卵は受精し、暫くおいて、水中に鉢のまま安置する。あとはもう孵化を待つだけのことである。
私はいやな気がしながらも、その作業に心惹かれた。ここの鱒はすべて人工養殖に依るのであるが、産卵に戻ってくる雌鱒は、放流された場所だけを覚えていて、腹を裂かれたことは忘れているのであろうか。本能にその選択があるのであろうか。いずれにしても、宿命的に観れば、彼女等は一身を捧げて戻ってくるのだ。献身のために、争って岸辺へ群れ寄ってくるのだ。
水槽に投げ込まれた雄鱒は、また精子の成熟をまって、三度ぐらいは使用出来るのである。三度も。なんという有能さであろう。けろりとして三度も。
それらのことは、彼女等や彼等の知ったことではない。けれどもそれらの作業を行うのは人間である。それが実感として私の胸に来る。
私の夫は、私以外の女に二人も子供を産ませた。そして私が恋愛をすれば、相手の男を殺してしまうと猛りたった。平田にしても、妻子がありながら、私をあんなに熱烈に愛撫した。やがては、私より他の女にその情熱は向けられるかも知れない。そのようなことが、女性には出来ないと言うのではない。女にも出来得るだろう。貞操の問題を離れてのことだ。ただ然し、女には妊娠というものがある。一人の子供を産むのだけで、一つの生である。一つの生の積極的な献身だ。男にそんなものはない。
だが私は、不妊の体かも知れない。いくら私の腹をしぼっても、腹を裂いても、成熟した赤い卵は出て来ないだろう。
鱒の人工繁殖作業は、悪夢みたいだ。平田はあれを見て、どう感じたであろうか。
「あなたも、あれを見たでしょう。」
私は月光の中に眠ってる作業所を指さした。
「うむ。案外簡単なことで、つまらなかった。」
「ほんとにつまらなかったの。」
「もっと精巧な微妙なことかと思っていたんだ。」
嘘ではないらしい。彼は愚かに鈍感になったのであろうか。愛情の上の思いつめたものを、取り失ってしまったのであろうか。
私は池のほとりを離れて、湖水の方へまたおりていった。彼は素直についてくる。旅館の貸下駄をかたかた音立て、丹前姿にオーバアを引っかけて、それは恋愛する男の姿ではない。
私はまだまだ外を歩きたかった。旅館の狭苦しい室に戻りたくなかった。
湖水の岸の砂地を、行けるところまで行ってみよう。
月はもうだいぶ昇って、湖面の光りの反映は狭まり、沖の方は黝ずんで盛り上っている。
「この湖水には、伝説があるのね。」
「たいていの湖水には、伝説があるものだが、どういうの。」
話すのも、つまらなくなった。神様と、坊さんと、怪物、その三つの型に多くはきまっているのだ。
断雲が空を流れて、時々月光が隠される。
「それに、怪談もあるわ。」
「怪談……伝説と同じことじゃないかな。」
「いいえ、怪談というより、事実かも知れないわ。この湖水、たいへん深いでしょう。山の上にあるけれど、真中の底は、海面に近いぐらいよ。それで、水死人が、深く深く沈んでゆくと、水圧のために浮き上らなくなり、立ったまま、底のへんを、ふらりふらり歩いてるの。そんなのが、たくさん歩いてるのよ。」
ほんとにそんな風に、私は信じたかった。
しばらく間を置いて、平田は言った。
「それは、おかしい。水圧で浮き上れなくなることは、あるかも知れないが、人間の身体は、頭の方が重くて足の方が軽い筈だから、立っているとすれば、逆立ちになるわけだが……。」
私は一歩足をとめて、彼をちらと顧みた。彼は沖の方は見ずに、月を仰いでいる。湖水の底の死体どもが、真直に立たずに、逆立ちして、ふらりふらり動いてるとすれば、それはなんと奇怪な光景だろう。そんなことは到底信じられない。
「ほんとかしら。」
「何が。」
「死体の話。」
「君がそう言ったんじゃないの。」
声の調子は、私の話をばかにしてるのではなかった。それかと言って、真実と思ってるのでも勿論なかろう。逆立ちのことは、ただ理論的訂正なのだ。ただ理論的訂正。
私はローレライの歌を口ずさみかけて、やめた。
はっと思い出したことがある。――平田の奥さんの知人に、霊感の強い中年婦人がいる。日蓮宗の信者で、さる修験者について修業をし読経中ばかりでなく、日常の間にも、ふっと精神統一の境にはいることがある。そして霊感で得る言葉を口走る。予言的なことがよく的中する。人の生死を言い当て、吉凶を予見し、ものの怪のたたりをあばきだす。勿論彼女は、普通の行者のようにそれを業とはしない。頼まれても頼まれなくても、自然に発するのだ。その婦人が、よその家で、平田の奥さんに向って、危難を免れる、と二度ほど口走った。何のことやら、彼女自身にも奥さんにも分らないのだ。解釈はどうとも御自由だというのである。そのことを、奥さんは平田に話した。丁度私の夫が、私の恋愛の相手を殺すとか殺さないとか、いきり立ってた時のことだ。平田は私に笑い話として伝えた。だが私は胸にこたえた。私は日蓮宗を信ずるのでもなく、霊感とか霊気とかを信ずるのでもないが、その婦人に逢ってみたくなった。平田はてんで取り合わなかった。彼にとっては、すべて迷信なのだ。
迷信排除と、理論的訂正。
平田は唯物論者なのだ。それもよい。だけど、思いつめたあげくのこの山上の湖水で、強い精神的閃めきを私は彼に期待した。唯物論者にも精
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