神の光輝はあろう。彼の純粋無垢な詩情は、彼の情熱は、唯物論とか唯心論とかには関係なく、精神の純一な光耀から起るものではなかったか。それを彼はどこかに取り落して、愚鈍な不感症みたいになってしまったのであろうか。
私は彼の方へきっと向き直った。頬の肉が引きつるのを押し切って言った。
「わたしの行く通りについて来て下さいますか。」
「ついていくよ。」
「どんな所へでも。」
「ええ、どんな所へでも。」
事もなげな気安い返事だ。
私はくるりと向き直って、真直ぐに湖水へはいって行った。靴のまま、服と外套のまま、水へはいって行った。彼はすぐ私のあとからついてきた。冷徹な水は、膝から腰へ、腰から胸へ、ひたひたと迫ってくる。足先がしびれてくる。よろけかかって、首まで沈もうとした、とたんに、私は両肩を引戻された。
「ちょっと待って。忘れていた。僕は薬を持っている。あれを飲んでから、一緒にはいろう。」
切れ切れの言葉と共に、私は巨大な感じのする力に引き戻された。
ずぶぬれの姿を、私は湖岸の砂上に投げ出した。
なんという大きな力だったろう。そしてなんという分別くさい考慮だったろう。それだけで、なんの感激も情熱もなかった。手を握り合いさえもしなかった。薬を飲んだら、彼は白痴のように、犬のように、ただ白々しく、私のあとにどこまでもついて来ることだろう。
私は彼を殴りつけたかった。蹴飛ばしたかった。そして泣きたかった。だがその力も、もう私にはなかった。
彼は私を扶け起そうとしたが、私がぐったりしてるので、手を離して、そこにしゃがみこんだ。
「許してくれよ。僕はすっかりだめなんだ。どこか麻痺してるんだ。」
彼は小児のようにしくしく泣きだした。いつまでも泣いた。
私は半身を起して、膝でいざり退いた。怪しい戦きが心を走った。――彼は気が変になりかけたのではあるまいか。白痴になりかけたのではあるまいか。見つめているうちに、身体が震えてきた。突然、月が私を眺めているぞと、へんなことを考えた。
私は立ち上った。まだ泣いてる彼を扶け起した。彼は逆らわずに殆んど自力で立ち上った。その腕を私は抱いて、旅館の方へ歩きだした。
私は決心していた。決して死ぬものか、この人と一緒になど死ぬものか。決心して且つ自ら誓った。それにしても、私達の恋愛はどこへ行ってしまったのだろう。残ってるものは何もない。慾情のみはまだ残ってるかも分らないが、それももういやだ。それからもし必要とあらば、この人に対するちょっとした看護婦めいた務めが……。それだけは果してやってもよい。
だがそれも、つまりは私の精神的空想だったろう。
彼はもう泣きやんで、呼吸も正しく、しっかりと歩いた。私はそっと彼の腕から手を離した。彼はぶるぶると震えた。私も震えた。だが寄り添いもせず、無言で歩いた。――遊びとしては真剣すぎるのだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「新潮」
1949(昭和24)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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