。彼は煙草を吸うのも忘れて、上衣やズボンをしきりに乾かしてばかりいる。私は焚火の焔を見つめながら、佗びしい思いに沈んでいった。そこから浮び出るようにして、あたりを見廻わすと、雨脚の廉ごしに、つき立った山腹が見える。全山紅葉だが、赤色から黄色にいたる色どりがぼーっとかすんでいる。私の眼もかすんできて、泣きたくなった。
「なにをぼんやりしてるの。服を乾かしてごらん。ほら、こんなに湯気がたってきた。」
彼の服からはほかほかと湯気がたっていた。けれど、そんなことはどうでもよいのだ。靴の中がじめじめしてるのが、服の濡れたのよりは、私には気になる。靴の中のじめじめよりは、心の湿っぽいのが、一層悲しいのだ。
心情がぼんやりしてるのは、私よりもむしろ彼の方だったではないか。あの山腹の上の方、あすこの峠を、バスは通ってきた。峠の上で、バスは止って、乗客に下車を許すのである。そこで突然に眼界が開けて、湖水が一望のうちに俯瞰される。四方を取り巻いてる山々の中に、二つの半島を抱いて、湖水は青々と深々と広がっている。対岸は茫とかすんでいるが、近くの山々や半島は、黝ずんだ針葉樹林をちりばめて、眼がさめるほどの
前へ
次へ
全23ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング