逃げ出すだけのことだと、ひそかに考えもした。
 神社の裏手に、嶮しい登り道がある。岩角や木の根を頼りに、匐うようにして登ってゆく。ずいぶん遠い。木立が深くて見通しは利かない。ふいに、断崖の上に出る。下に何があるのか、覗き見ることも出来ない高い絶壁で、鉄の梯子がさがっている。若い人たちが昇り降りしていた。
 その鉄の梯子から少し離れた横手に、私達は腰を下した。断崖の中途に生えてる大木の梢が、すぐ眼前にある。真下は深い淵らしい。その深淵が更に深々と広がって、濃藍色の湖面となり、漣もないほど静まり返っている。こちらは湖中に突き出た半島で、対岸もやはり半島。半島の山には、針葉樹が多く、闊葉樹は紅葉し、代赭色の岩肌が絶壁の中に散見される。それらが、とろりとした湖面に影を落している。その辺の湖心の深さ、三百五十メートルほどもあり、水の透明度は高く、しかも美しい藍色なのだ。
 私は身をずらして、断崖の縁のところまで出た。
「危いよ。」と平田は言った。私は彼の眼を見返した。彼も私の眼を見たが、すぐに視線をそらした。
 細い灌木の幹を、私は片手で握っていた。身内がぞくぞくして、もし手を離したら墜落するか
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