平田はこの湖畔に逃亡してきた。前後の見境いはなかった。
 こうした場合、彼に命がけの詩作を求めるのは無理であろうか。然したとい詩は出来なくとも、心は、精神は、詩の中にあってほしかった。それが、熊の木彫での時間つぶしとは、どうしたことであろう。

 砂地に横たわってる大きな朽木に、私は腰を下して、両手に額をもたせた。掌も額も冷たい感じだ。ひたひたと、足先の岸べにかすかな水音がする。平田はそこいらを歩き廻っていた。近くに来て、ふいに私の名を呼んだ。
「美津子さん。」
 私はじっとしていた。
「美津子さん。僕は人生がつまらなくなった。何もかもばかばかしく思われる。どうしていいか分らないんだ。ねえ、お願いだから、こうしろとか、ああしろとか、何とか言ってくれない。どんな些細なことだって、大きなことだっていい。君の言う通りにする。」
 私は顔を挙げた。彼は月の光りを斜め後ろから受けて、影法師がつっ立ってるようにも見える。
 私は言葉を出しかけてやめた。彼の名を、平田さんではなく、良彦さんと、ただ呼んでみたかったのだ。そして泣きたかった。けれど、なにか冷りとするものに心が鎖された。私は孤独なのだ。

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