彼はまったく、私の言う通りになるだろう。私が黙って歩きだせば、私のあとについて来るだろう。湖水の中にすっとはいってゆけば、深い底までもついて来るだろう。そう私は感じた。そしてそのことが、月光の中で、私を孤独にした。
私は立ち上って歩きだした。彼はすぐ後ろについて来た。
掛け網が幾つも並んで、木に渡して干してある。そのわきに、高い木梯子が、櫓のように立っている。添木でとめて地面に定着さしてある。魚見の櫓だ。ここは姫鱒の人工養殖所で、孵化した稚魚を湖水に放流すれば、育った親鱒は三年後に、その回帰性によって、放流された場所へ産卵に戻ってくる。群れをなして戻ってくる。その魚群の到来を見極める魚見の櫓だ。
その梯子へ、平田はこないだ、数段だけよじ登ったことがある。何も見えないと、すぐに降りてきた。
梯子は夜空に白々とつっ立っている。
私は立ち止り、じだんだふむような気持ちで言った。
「あれに登ってみて下さらない。いちばん上までよ。」
彼は怪訝そうに私の顔を見た。
「自分で登りたいんだけど、危なっかしいから、代りに登ってみてよ。」
「そんなこと、何の役にもたちゃあしない。」
「ためすのよ。自分の勇気をためすのよ。あなたの勇気をためすのよ。」
「勇気なんかいりゃあしないが……。」
彼はちょっと考えたが、肩にかけてるオーバアをぬごうとした。
「もういいの、いいのよ。」私はあわててとめた。
梯子のそばをぬけて、道路に出た。
道路の片側に、小さな溝があり、養魚池から来る水がちょろちょろ流れている。この僅かな水流にまで、鱒はさか上ってくることがある。湖水にそそぐ土管をくぐり、瀬を跳ねあがり、窪み窪みを辿って、浅いところは背中を半ば出して砂上を匐うように泳ぎ、産卵のためにさか上ってくる。そういう一匹を私は見つけた。それは本能からであろう。無我夢中でもあろう。然しなんという勇敢な積極的なことか。それは恋愛をする女性の姿だ。
私はもう、恋愛をしていないのであろうか。
男性はどうなのか。平田はどうなのか。
「鱒を見にいきましょう。月の光りで見たら、どんなかしら。」
道路から少し上ったところに、コンクリート造りの池が幾つも並んでいる。春夏は鯉や鮒が飼ってあるそうだが、秋には姫鱒がいっぱいはいっている。産卵に戻って来るのを、地引網で捕えて、雌雄よりわけて放ってあるのだ。上方から順次に山水が流れ落ちている、その水流に逆らって、群れ静まっているが、些細な物音や物影にも、ぱっと乱れ散って渦を巻く。
私達は足音を忍ばして近づいたが、池のそばに植えてある桜の立木に月光が遮られて、よくは見えない。眼が馴れてくると、池の中には黒いものが縦横に動乱しているのが分った。やはり足音か人影かに驚いたのであろう。三年以上の親鱒は、肌や鰭に赤みを帯びているのだが、木立をもれる斑らな月光では、ただ黒々と見える。しばらく静かに拝んでいると、魚も寄り集まって静かになる。少しでも身動きすれば、ぱっと散る。なんという敏感なことか。
私達は順々に池を見ていった。
「昼間と同じだね。」
私が黙っていると、平田はまた言った。
「どの池も同じだね。」
いいえ、違う。私はそのことを知っているのだ。昼間とは色も感じも違う。それはともかく、池の形はみな同じでも、中のものはたいへんな違いだ。私はそれに突き当って、もう魚の姿は求めずに、ただ水面に視線を据えた。私は人工受精の作業を何度も見た。上方の建物の中で、毎日行われている。
池の水を半ば切って落し、手網で魚をすくい取り、池に浸してある竹籠に入れる。籠の中の魚は、一匹一匹手掴みにして、腹中の卵が検診される。雌鱒の池のことだ。卵が成熟しておれば、ちょっと腹をしぼると、赤い卵が一粒ずつ放出される。そういうのだけが作業に堪えるのだ。棒切れで頭部を叩けば、魚は痙攣して生態の機能が止まる。それをブリキ箱に一杯並べ、作業場へ運ぶ。直ちに腹を裂いて、卵だけ取り出し、瀬戸引きの鉢に移す。
作業場の小さな水槽には、池から捕えられた雄鱒が群れている。それを一匹ずつ手掴みにして、腹をしぼり、放出する白い精液を、赤い卵のはいってる鉢に注ぎかける。用済みの雄鯵は、他の水槽の中に投げ込まれる。そして鉢の中を攪拌すれば、卵は受精し、暫くおいて、水中に鉢のまま安置する。あとはもう孵化を待つだけのことである。
私はいやな気がしながらも、その作業に心惹かれた。ここの鱒はすべて人工養殖に依るのであるが、産卵に戻ってくる雌鱒は、放流された場所だけを覚えていて、腹を裂かれたことは忘れているのであろうか。本能にその選択があるのであろうか。いずれにしても、宿命的に観れば、彼女等は一身を捧げて戻ってくるのだ。献身のために、争って岸辺へ群れ寄ってくるのだ。
水槽に投げ
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