込まれた雄鱒は、また精子の成熟をまって、三度ぐらいは使用出来るのである。三度も。なんという有能さであろう。けろりとして三度も。
それらのことは、彼女等や彼等の知ったことではない。けれどもそれらの作業を行うのは人間である。それが実感として私の胸に来る。
私の夫は、私以外の女に二人も子供を産ませた。そして私が恋愛をすれば、相手の男を殺してしまうと猛りたった。平田にしても、妻子がありながら、私をあんなに熱烈に愛撫した。やがては、私より他の女にその情熱は向けられるかも知れない。そのようなことが、女性には出来ないと言うのではない。女にも出来得るだろう。貞操の問題を離れてのことだ。ただ然し、女には妊娠というものがある。一人の子供を産むのだけで、一つの生である。一つの生の積極的な献身だ。男にそんなものはない。
だが私は、不妊の体かも知れない。いくら私の腹をしぼっても、腹を裂いても、成熟した赤い卵は出て来ないだろう。
鱒の人工繁殖作業は、悪夢みたいだ。平田はあれを見て、どう感じたであろうか。
「あなたも、あれを見たでしょう。」
私は月光の中に眠ってる作業所を指さした。
「うむ。案外簡単なことで、つまらなかった。」
「ほんとにつまらなかったの。」
「もっと精巧な微妙なことかと思っていたんだ。」
嘘ではないらしい。彼は愚かに鈍感になったのであろうか。愛情の上の思いつめたものを、取り失ってしまったのであろうか。
私は池のほとりを離れて、湖水の方へまたおりていった。彼は素直についてくる。旅館の貸下駄をかたかた音立て、丹前姿にオーバアを引っかけて、それは恋愛する男の姿ではない。
私はまだまだ外を歩きたかった。旅館の狭苦しい室に戻りたくなかった。
湖水の岸の砂地を、行けるところまで行ってみよう。
月はもうだいぶ昇って、湖面の光りの反映は狭まり、沖の方は黝ずんで盛り上っている。
「この湖水には、伝説があるのね。」
「たいていの湖水には、伝説があるものだが、どういうの。」
話すのも、つまらなくなった。神様と、坊さんと、怪物、その三つの型に多くはきまっているのだ。
断雲が空を流れて、時々月光が隠される。
「それに、怪談もあるわ。」
「怪談……伝説と同じことじゃないかな。」
「いいえ、怪談というより、事実かも知れないわ。この湖水、たいへん深いでしょう。山の上にあるけれど、真中の底は、海面に近いぐらいよ。それで、水死人が、深く深く沈んでゆくと、水圧のために浮き上らなくなり、立ったまま、底のへんを、ふらりふらり歩いてるの。そんなのが、たくさん歩いてるのよ。」
ほんとにそんな風に、私は信じたかった。
しばらく間を置いて、平田は言った。
「それは、おかしい。水圧で浮き上れなくなることは、あるかも知れないが、人間の身体は、頭の方が重くて足の方が軽い筈だから、立っているとすれば、逆立ちになるわけだが……。」
私は一歩足をとめて、彼をちらと顧みた。彼は沖の方は見ずに、月を仰いでいる。湖水の底の死体どもが、真直に立たずに、逆立ちして、ふらりふらり動いてるとすれば、それはなんと奇怪な光景だろう。そんなことは到底信じられない。
「ほんとかしら。」
「何が。」
「死体の話。」
「君がそう言ったんじゃないの。」
声の調子は、私の話をばかにしてるのではなかった。それかと言って、真実と思ってるのでも勿論なかろう。逆立ちのことは、ただ理論的訂正なのだ。ただ理論的訂正。
私はローレライの歌を口ずさみかけて、やめた。
はっと思い出したことがある。――平田の奥さんの知人に、霊感の強い中年婦人がいる。日蓮宗の信者で、さる修験者について修業をし読経中ばかりでなく、日常の間にも、ふっと精神統一の境にはいることがある。そして霊感で得る言葉を口走る。予言的なことがよく的中する。人の生死を言い当て、吉凶を予見し、ものの怪のたたりをあばきだす。勿論彼女は、普通の行者のようにそれを業とはしない。頼まれても頼まれなくても、自然に発するのだ。その婦人が、よその家で、平田の奥さんに向って、危難を免れる、と二度ほど口走った。何のことやら、彼女自身にも奥さんにも分らないのだ。解釈はどうとも御自由だというのである。そのことを、奥さんは平田に話した。丁度私の夫が、私の恋愛の相手を殺すとか殺さないとか、いきり立ってた時のことだ。平田は私に笑い話として伝えた。だが私は胸にこたえた。私は日蓮宗を信ずるのでもなく、霊感とか霊気とかを信ずるのでもないが、その婦人に逢ってみたくなった。平田はてんで取り合わなかった。彼にとっては、すべて迷信なのだ。
迷信排除と、理論的訂正。
平田は唯物論者なのだ。それもよい。だけど、思いつめたあげくのこの山上の湖水で、強い精神的閃めきを私は彼に期待した。唯物論者にも精
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