きました。
 けれど、もう仕方ありませんでした。向こうから、小父さんに案内されてあの人がやってきました。シルクハットをかぶり、ぴかぴか光る靴をはき、小さな鞄《かばん》をかかえ、ながい口髭《くちひげ》をぴんとはやし、鼻眼鏡《はなめがね》をかけ、眼鏡《めがね》のふちから一本のほそい金鎖をたらし、それを襟《えり》もとにとめていました。いかにもえらい学者のようでしたが、しかし、その鼻眼鏡のおくに光ってる目が、なんだか気味《きみ》わるく思われました。
「ああ、この木でしたな」
 学者はそこに立って、いっぱい咲いてる花を見あげました。それから、その根本にかがんで、鞄《かばん》をひらきました。しばらくかちゃかちゃやってから、注射器をとりだしました。畳針《たたみばり》のような大きな針がついていました。彼はしばらく、幹《みき》をなでていましたが、いきなり、ぶすりと針をさしました。
 私はぞっとしました。私の手をにぎっていた正夫も、ぎくりとしました。桜の木は、私たちよりもいっそうびくりとふるえて、花がひらひらとちりました。
 学者は反対の方にまわって、も一度、注射の針をぶすりとさしました。花がまたひらひら
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