山の別荘の少年
豊島与志雄

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)その甥《おい》に
−−

 私は一年間、ある山奥の別荘でくらしたことがあります。なかば洋館づくりの立派な別荘でした。番人をしている五十歳ばかりの夫婦者と、その甥《おい》にあたる正夫《まさお》という少年がいるきりでした。私は正夫とすぐに親しくなって、いろいろなことを語りあい、いろいろなことをして遊びました。たくさん思い出があります。そのいくつかをお話しましょう。

      一 さくら

 別荘の裏手の山つづきのところに、たくさんの桜の木がありました。春になるといっぱい花がさいて、家ぜんたいが、花にだかれたようになりました。
 山奥の桜の花は、じつにきれいで、都会の公園の花のように埃《ほこり》をかぶっていませんし、平野の花のように色あせていません。花びらがみずみずしくてくっきりと白く、ほんのりと赤みがういて見えます。それが無数にさきみだれて、その間から、かわいい小さな葉が、緑色に笑いだしています。
 朝日がさすと、白い綿のようですし、夕日がさすと、うす赤い綿のようです。月の光がさすと、夢のなかの雲のように見えます。
 ある晩、私は窓をあけて、月の光がいっぱいさしてるなかで、桜の花をながめました。それから外に出ていって、花の下を歩きました。
 幹の影と自分の影とが地面にくっきりうつっていましたが、花は月の光をとおして、ぼーとうす明るく、まったく白雲《しろくも》のようでした。
 その白雲の下に、向こうに、正夫がぼんやり立っていました。
 私はほほえんで近づきました。
「桜の花は、月の光で見るのがいちばんきれいだねえ」
 正夫は私の顔を見たきり、いつまでもだまっていました。
「どうしたの」と私はたずねました。
「だって、僕心配だもの」
「何が?」
「この木ですよ」
 正夫が指さしたのを見ると、それはひときわ大きな桜の木で、まるく枝をひろげて、しなうほどいっぱい花がさいていました。日傘《ひがさ》の上に白い雲と月の光がつみかさなったようで、じつにみごとでした。
 その木を見てるうちに、私にも、正夫の心配がはっきりわかってきました。
 昼間のことでしたが、遠いところから、ここの桜の花のことをきいて、えらい人が見物《けんぶつ》に来たのです。そして花を見てしきりに感心していましたが、ただ一つおしいことがある、といいだしました。それは、桜の花に匂《にお》いがないということでした。
「これほどきれいに咲いてるのだから、これに、梅の花のようなよい匂いがあったら、さぞよいだろう」
 その言葉を、正夫の小父《おじ》さんがききとがめました。そして、どうかして匂いをつける仕方《しかた》はあるまいかと、相談しました。するとその人は、植物のことなら何一つ知らないことはないというほどえらい学者で、桜の花に梅の花のような匂いをつけてあげようと、引き受けたのでした。ある薬を桜の幹《みき》に注射するんだそうです。けれど、その薬はたいへん貴《とうと》いもので、たくさんはないから、いちばん立派な大きい桜の木を一本えらびました。
「一本でもけっこうです」と小父さんは叫びました。「それこそ、日本一の……世界一の……桜になります」
 その注射が、今晩なされることになっていました。すると、明日、朝日がさす頃になると、桜の花は梅の花のようなよい匂いをたてるそうでした。
 正夫は私の顔を心配そうにながめました。
「大丈夫でしょうか。注射って、いたいでしょうね」
「そうだねえ……」
 考えてみると、私も心配になってきました。
 けれど、もう仕方ありませんでした。向こうから、小父さんに案内されてあの人がやってきました。シルクハットをかぶり、ぴかぴか光る靴をはき、小さな鞄《かばん》をかかえ、ながい口髭《くちひげ》をぴんとはやし、鼻眼鏡《はなめがね》をかけ、眼鏡《めがね》のふちから一本のほそい金鎖をたらし、それを襟《えり》もとにとめていました。いかにもえらい学者のようでしたが、しかし、その鼻眼鏡のおくに光ってる目が、なんだか気味《きみ》わるく思われました。
「ああ、この木でしたな」
 学者はそこに立って、いっぱい咲いてる花を見あげました。それから、その根本にかがんで、鞄《かばん》をひらきました。しばらくかちゃかちゃやってから、注射器をとりだしました。畳針《たたみばり》のような大きな針がついていました。彼はしばらく、幹《みき》をなでていましたが、いきなり、ぶすりと針をさしました。
 私はぞっとしました。私の手をにぎっていた正夫も、ぎくりとしました。桜の木は、私たちよりもいっそうびくりとふるえて、花がひらひらとちりました。
 学者は反対の方にまわって、も一度、注射の針をぶすりとさしました。花がまたひらひら
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング