とちりました。学者は鞄から小さな白っぽいものをとりだして、注射のあとにはりつけました。よく見ると、それはブリキの板でした。
「これでよろしい」
 学者はそういって、小父さんといっしょに戻っていきました。
 私と正夫は、手をとりあったまま、そこに残っていました。なんだか心配でたまりませんでした。
 いつのまにか、月の光がうすれて、東の空が白んできました。どこかで、小鳥の声がします。そして、空に赤い光がながれて、つめたい風がそよそよと吹いてきました。その時、桜の花がはらはらとちりはじめ、それと共に、たいへんよい匂《にお》いが、あたりにひろがってきました。
 注射がきいたのでしょうか。たしかにそうでした。花がちるといっしょに、なんともいえないよい匂いが、あたりいちめんにただよって、息をつくのも苦しいほどでした。けれど、どうしたことか、花はしきりにちってやみませんでした。よい匂《にお》いといっしょに、白い花びらが、ひらひらひらひら、しきりにまいおちて、雪のように地面につもりました。そのきれいさ美しさは、何ともたとえようがありませんでした。
 そして、朝日の光がさしてくる頃になると、その桜の木の花はすっかりちってしまい、緑の小さな葉もちってしまい、よい匂いもどこかに消えうせてしまって、あとにはただ、はだかの枯木《かれき》が残ってるだけでした。
 私は、その枯木をぼんやり見あげました。
 正夫は、ふいに泣きだしました。
「小父さんに知らしておいでよ」と私はいいました。
 正夫はかけだしていきました。
 私は枯木にさわってみましたが、もうどうしようもありませんでした。ほかの木はいっぱい花をさかせ、小さな葉をだしているのに、その一本だけが、はだかのままで、さびしく立ってるのです。私はその近くを、いつまでも歩きまわりました。
 がやがや、人声がしますので、ふり向いて見ると、小父さんが先にたって、四五人の村人がやって来るのでした。
 縄《なわ》や鋸《のこぎり》や斧《おの》をもっています。
 私はびっくりして、口がきけませんでした。村人たちはもう、枯れた木に縄をつけ、その根本《ねもと》を、鋸《のこぎり》でひいたり、斧《おの》で切ったりして、うちたおそうとしています。こーん、こーん……という斧の音が、私の胸にしみ通ります……。
 はっと、眼をあいてみると、私は部屋の中にねているのでした。窓から、斧の音がひびいてきます……。
 私はとび起きました。窓をあけてみると、ぱっと朝日の光がさしていて、向こうの桜の木立のなかの大きな一本の枯木《かれき》が、切りたおされかかっているところでした。
 私はいそいで着物をきて、そこに行ってみました。桜の枯木はもう根本《ねもと》を切られて、ぐらぐらしていました。それを、二三人の村人が、縄《なわ》で引っぱりました。枯木は大きくゆらりとうごいて、それからさっと横だおしにたおれました。ほかの木の花がひらひらとちりました。
 正夫が涙ぐんでそれを見ていました。
 枯木のたおれたあとには、びっくりするほど、青い深い空が見えました。私はその明るい空を指さして、正夫にみせてやりました。

      二 なまず

 山奥といっても、南方《なんぽう》のことですから、夏はそうとうに暑く、水のほとりがなつかしくなります。
 家から二三百メートルのところに、きれいな川がながれていました。川床《かわどこ》は岩や小石で、ところどころに深みをつくり、そこには柳や杉などが岸にしげり、また浅瀬《あさせ》となり、そこにはこまかい砂で、芹《せり》や藻《も》などの水草がはえて、小さな魚がおよいでいました。そして少しかみてが、滝とも瀬《せ》ともつかない急な流れでゆきどまりとなり、その下に、大人の胸ほどの深さのひろい淵《ふち》をこさえていました。
 私と正夫とは、よくその川へあそびに行きました。
 泳げるほどの大きな川ではないかわりに、水が清くつめたくて、飲んでもよさそうに思えるほどでした。浅い瀬にはいって、美しい小石をひろったり、水草の間の小魚をつかまえたり、岸にねころんで釣りをしたりしてると、いつまでもあきませんでした。
 かみての急流《きゅうりゅう》のところ、それを村の人たちは滝といって、滝の下の淵をきれいなものとして、よこてに小さな石のほこらなどがまつってありました。そこへ、私たちは朝おきるとすぐ、顔を洗いに行くこともありました。
 ある朝、そこで顔をあらっておりますと、正夫が、あれッと叫んで、水にぬれた顔のまま、目をまんまるくうちひらいて、淵のなかを見つめました。
「なんだい」と私はたずねました。
「なまず……とても大きななまずが……金色の髭《ひげ》をはやして……」
 のぞいてみましたが、私には見えませんでした。もう岩にかくれたと正夫はいいました。けれ
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング