を書いている。嘗て、中島健蔵君や私の前で、それらの詩を披露して嬉しがっていた。中島君も昔は詩作に耽ったことがある。私も二三篇の詩を作った覚えがある。そこで私達は三人とも、詩人に復活して詩を談じた。
復活せずとも、三木のうちには常に詩人がいた。彼の表現のなかには詩的なものが散見される。ばかりでなく、「哲学入門」のなかには、将来大成さるべき所謂三木哲学への構想の断片が織り込まれているが、それらの哲学的構想の断片は、また哲学的詩想と呼ばれても宜しいものである。
三木が持っていた人情への理解、芸術への理解、更に人生への理解は、「歴史哲学」などに見える哲学者三木によってよりも、右の詩人三木によって深められたものと私には思える。そしてその理解の上に立って、三木は理知的なヒューマニストだった。
三木の活動は多方面に亘っている。嘗ての昭和研究会の中堅人物であり、国民学術協会の実質的幹部であり、岩波書店の最もよき顧問頭脳であり、幾つかの文化科学的辞典の中心執筆者であり、天下の青年知識層を魅了した幾多の書物の著者である。西田幾多郎氏に師事していただけで、師弟の系譜なく、独自の存在であって、その交友
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