て後、既に義兄だった東畑精一氏の世話で二度目の夫人を迎えたことなど、吾々の多くにも知らせもしなかった。
このいと子夫人が病気ではいった病院は、私の住居のすぐ近くにあった。だが彼は、私の方から見舞いに行くまで、そのことを知らせなかった。友人知人に迷惑をかけたくない思いと、自分のことは自分だけでやってのけようとの思いと、両方があったのであろう。もっとも、いと子さんの入院当初、私は一ヶ月ほど上海に行っていて、家には娘と女中きりだった。
上海から帰ってから、私はいと子さんの入院を知り、見舞いに行った。お嬢さんの洋子さんや付添いの人もいた。三木は高円寺の自宅からこの本郷の病院まで、遠いところを毎日通って来て、数時間の看病をした。一昨年の暮から昨年の初にかけた頃で、万事不自由な窮乏な時勢に、食糧を調達し薬剤まで探して来た。所用の都合や病状の如何によっては、どんなにでも私の家を利用してくれるようにと、私は繰り返えし言ったのだが、彼は遂に一夜も私の家に宿泊しなかった。
いと子さんの病気は肝臓癌で、手のつけようがなく、じりじりと重くなっていった。本人はそれを知らず、ひたすら退院の時期を希求していた
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