ない。
そんな筈はない、この思いは、吾々の多くに共通なものだった。三木宅に集った人々の多くもそれを語った。
三木の死には特殊なものがある。
彼の死んだのは昭和二十年九月二十六日、終戦後四十日のことである。時勢は革命的大転換を遂げて、将来のことが深思される時である。吾々は三木の活動に最も大きな期待を持った。彼は常に華かな存在だったし、偏狭な軍国主義者等から眼の敵にされていたので、戦争中、まあ当分静かにしているようにと周囲の者も勧め、彼自身もそのつもりでいた。そこへ豁然と自由主義の時代が開けたのだ。彼は今や四十九歳、思想もますます円熟してきたに違いない。心ある人々は彼のことを考えた。そういう時に、彼は突然に死んだ。
彼が獄死しようなどと、吾々は夢にも思わなかった。彼が捕えられることになった事件そのものが、実につまらないものだった。彼の友人高倉テル君が、これも殆んど冤罪で、治安維持法にひっかかり、警視庁に留置されているうち、何故か逃亡した。当時、三木は埼玉県の鷺宮に疎開し、東京の自宅との間を往復していた。その鷺宮の仮宮へ、高倉テル君が罹災者の姿で訪れてきた。これを三木は一晩世話してや
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