った。人情として当然のことである。其後、高倉君は再び捕えられ、その足取りによって、三木のところで一夜世話になったことが官憲に知られた。かねて自由主義者として睨まれていた三木は、警視庁に連行され、その思想傾向や余罪を洗いたてるという官憲一流のやり方で、長く留置されることになった。警視庁に連行されたのが三月二十八日で、次に巣鴨の東京拘置所へ移され、それから豊多摩刑務所内の拘置所へ移され、九月二十六日に急死し、死体は二十八日に自宅へ帰った。
三木が高倉事件に連座したこと、そのことからして実につまらない。然しこのつまらないことが、検事に言わすれば甚だ厄介なことになるそうである。厄介なのは官憲にとってはよい口実となったろう。死体となって帰宅するまで、三木はまる六ヶ月間拘置されたのである。死体としてでなく元気な姿で、もう帰って来てもよさそうだと、誰しも考えていた。その間三木は、どうしていたことであろうか。接見も差入れも許されなかったのである。刑務所側の説明に依れば、三木は警視庁以来、疥癬にかかり、また栄養失調を来し、九月半ばに急性腎臓炎となり、症状が進んで、病舎にあること二日にして急逝したとのこ
前へ
次へ
全15ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング