だが彼は、無いのを確かめただけで、別に残念そうな顔もせずけろりとしている。
 行儀よい食事の仕方などは、彼の人柄に合わなかった。談議の仕方なども放胆だった。戦時中、いろいろなことを談ずる際にも、そんなことを言うのは用心せよと、他人の言葉には忠告しながら、自分ではあたり構わず勝手なことを饒舌った。洩れ聞かれては危いと思われるようなことを、平気で声高に言ってのけた。
 なにかしら野性的な強健さが彼にはあったのだ。
 この強健さが、三木の表現をオルソドックスなものに持続さしたと、私は観ている。彼は詭弁的な表現をしなかった。如何なる独創的な思想も、オルソドックスな整然たる形で表現された。この表現の故に、一部の人々は彼の独創性を見落して、彼への高い評価を躊躇したことも無きにしも非ずと思える。一般知識階級の間に最も多く読まれた「哲学ノート」や「人生論ノート」を見る時、その独自な見解とその整正な表現との調和に、私は驚嘆する。更に妙なのは、彼の講演である。原稿なしの講演でも、彼の口から出る言葉は、立派な文章をなしていた。原稿を読んでいるかと思えるような調子を取ることが多かった。このために、彼の思想にではなく彼の人柄に触れたがる聴衆の一部は、そういう講演をあまり面白がらなかったようである。
 この整正な表現の故に、三木の独創性を見落してはならないと同様に、三木の熱情を見落してはならない。三木は現実のあらゆる事柄に向って、設問し、人生の深奥に向って設問し、人間の本質に向って設問したが、その設問は常に強い熱情を以てなされた。「パスカルに於ける人間の研究」は既にそれを示した。そしてこの設問の熱情の故に、彼の哲学は、単なる知識的な単なる学問的な旧套を脱して、具体的な生き物となった。彼が行動や政治を重視したのは必然のことである。
 巻煙草を吸う時、三木はパイプを使わず、そして人一倍に吸口を唾液でぬらした。灰皿に捨てられる吸い殼は、すっかりぬれていて、もみ消さずとも火が消えた。そのことについて、彼は冗談を言った――煙草を唾でぬらす者ほど熱情家だ。
 私は巻煙草を吸いぬらすどころか、じかに口にくわえるのもいやで、恐らく三木ほど煙草好きでないのであろうが、パイプを使うのである。そして、パイプで煙草を吸う私は、政治が甚しく嫌いなのである。政治の匂いのするものは一切がいやだ。――そういう私に対して、三木はいつもにやにや笑っていた。ところが、或る時彼は言った――そのように政治を偏狭に考えてはいかんよ。
 彼の政治論は彼の人生論と裏合せだった。政治嫌いを公言してる私が、特殊な自治とか特殊なアナーキズムとかを夢想してることは、彼から見れば可笑しかったであろう。然し彼はいつもおおらかな笑顔で私の偏狭な政治嫌いを受け容れてくれた。

 物にこだわらないおおらかな笑顔を、私はいつも彼のうちに見出した。
 私はいろいろの人と碁をうったが、三木ほど敵愾心の起らない相手は珍らしかった。彼を相手にしていると、勝負などはどうでもよくなるのである。彼の棋力そのものも甚だ他愛ないもので、日によって甚しく差異があり、またその棋理も茫漠としていた。戦争中、軍報道部からの徴用でフィリッピンに行き、帰って来てからは、暫く碁に遠ざかっていた逆作用でか、いくらか着実となり、更に鷺宮へ疎開した後の高円寺の留守宅を預ってる野上彰君から、多少棋理の説明を聞き、いくらか腕前が上ったようだが、それもすべて、いくらかの程度に過ぎなかった。ひどく早うちで、悦に入ると盤上に涎を垂らすこともあった。
 三木が二度目の夫人を亡くした後、その孤居を慰めるという口実で、私達は何度か彼の家で碁会をやった。集まる者は、大内兵衛、高倉テル、私など、少数だった。高倉君は人がわるく、言論戦でごまかして勝とうとした。三木もそれにつりこまれて憤慨的言論で応酬したが、碁の方はあまりうまくゆかなかった。
 彼を相手にしてると、私は碁に気力がこもらなかった。勝負などはどうでもよく、ただ棋の運行が楽しまれた。同時にまた、どんな無茶な手でも平気で打てた。
 碁に於てばかりでなく、すべてに於て、彼は最も気兼ねのいらない友だった。何を言っても、何をしても、彼に対してはてれるという気持ちが起らなかった。奥底に徹する深い理解が彼にあるという、一種の信頼感が持てたのである。
 打明けたことを言えば、私は嘗て、芸妓と余りに公然と馴染を重ねて、友人間に物議を招いたことがある。芸妓と懇親な間柄になったのが悪いというのではなく、貧乏な身分柄も顧みず余りに公然とそうした振舞いをするのが、怪しからんというのである。ところが私としては、貧乏は持ち前のことだし、また、公然をてらったのでなく、所謂お忍び的行為が全然出来なかったまでのことである。――その頃、彼女と同席で最も気兼
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング