三木清を憶う
豊島与志雄

 高度文化国建設のため、今や新たな出発をなさなければならない時に当って、吾々は三木清の知性を想う。彼の広い高い知性、そこに到着することさえ容易でないが、更に、そこから出発することが出来たらと翹望されるのである。この思いは、彼の死を悼むの念を、私情的のみならず公情的にも深める。――だが私は茲に、主として私情的な面からの文を綴ろう。身近に感ぜられる三木清のことを語ろう。
 三木の死は、私には驚愕であった。吾々の多くにとっても、驚愕であった。三木はつまらないことが機縁となり、豊多摩刑務所に拘置されていたのだが、間もなく釈放されるだろうと吾々は待望していた。あの元気な姿を今にも見せるだろうと、そう思う日が長く続いた。そこへ、突然に獄死の報なのである。
 三木清死す――この電文を前にして、私は茫然とした。有り得べからざることのように感じた。だがとにかく、高円寺の三木宅へ出かけていった。
 不在中、一友人の来訪があった。三木さんが亡くなられたので出かけたと、家人から聞かされて、その人は如何にも怪訝な面持ちで言ったそうである。――三木さんが亡くなったんですって、そんな筈はない。
 そんな筈はない、この思いは、吾々の多くに共通なものだった。三木宅に集った人々の多くもそれを語った。
 三木の死には特殊なものがある。
 彼の死んだのは昭和二十年九月二十六日、終戦後四十日のことである。時勢は革命的大転換を遂げて、将来のことが深思される時である。吾々は三木の活動に最も大きな期待を持った。彼は常に華かな存在だったし、偏狭な軍国主義者等から眼の敵にされていたので、戦争中、まあ当分静かにしているようにと周囲の者も勧め、彼自身もそのつもりでいた。そこへ豁然と自由主義の時代が開けたのだ。彼は今や四十九歳、思想もますます円熟してきたに違いない。心ある人々は彼のことを考えた。そういう時に、彼は突然に死んだ。
 彼が獄死しようなどと、吾々は夢にも思わなかった。彼が捕えられることになった事件そのものが、実につまらないものだった。彼の友人高倉テル君が、これも殆んど冤罪で、治安維持法にひっかかり、警視庁に留置されているうち、何故か逃亡した。当時、三木は埼玉県の鷺宮に疎開し、東京の自宅との間を往復していた。その鷺宮の仮宮へ、高倉テル君が罹災者の姿で訪れてきた。これを三木は一晩世話してやった。人情として当然のことである。其後、高倉君は再び捕えられ、その足取りによって、三木のところで一夜世話になったことが官憲に知られた。かねて自由主義者として睨まれていた三木は、警視庁に連行され、その思想傾向や余罪を洗いたてるという官憲一流のやり方で、長く留置されることになった。警視庁に連行されたのが三月二十八日で、次に巣鴨の東京拘置所へ移され、それから豊多摩刑務所内の拘置所へ移され、九月二十六日に急死し、死体は二十八日に自宅へ帰った。
 三木が高倉事件に連座したこと、そのことからして実につまらない。然しこのつまらないことが、検事に言わすれば甚だ厄介なことになるそうである。厄介なのは官憲にとってはよい口実となったろう。死体となって帰宅するまで、三木はまる六ヶ月間拘置されたのである。死体としてでなく元気な姿で、もう帰って来てもよさそうだと、誰しも考えていた。その間三木は、どうしていたことであろうか。接見も差入れも許されなかったのである。刑務所側の説明に依れば、三木は警視庁以来、疥癬にかかり、また栄養失調を来し、九月半ばに急性腎臓炎となり、症状が進んで、病舎にあること二日にして急逝したとのことである。拘置所内の皮膚病、殊に疥癬は、ひどく悪質なもので、それが高ずれば腎臓を冒して死に至らしむること、医学上の常識的経過だとも言われる。病舎にあって三木は、付添いの者もなく、寝台の外に倒れていたことが事実らしい。それらのことを、吾々は一切知らなかった。彼が死へ放置されてる間、吾々はただ彼の釈放をのみ待っていた。そして吾々の前に突然、彼の死体が現われたのである。
 死体を前にしても、吾々の眼には頑健な彼の姿のみが映る。彼は肉体的にも精神的にも、野性的頑健さを持っていた。よく食い、よく飲み、よく談じた。

 牛鍋をつっつく時の彼は面白かった。飲みながら、談じながら、生煮えの肉を頬張った。一切れ頬張ると、また箸をつきだして、鍋の中の生煮えの一切れを押える。無意識に先取特権を宣言するのである。肉が少くなると、他の者は箸を差出す余地がなくなる。最後の一切れまで彼に平げられてしまう。――然し私は、これに対抗する法を心得ていた。彼が肉の方に気を配ってる間に、私は酒の方に眼をつけるのである。銚子の最後の一杯まで飲んでしまう。彼が肉を食い終って、銚子に手を出す時には、もうそこには一滴も残っていない。
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