ねなく酒が飲める相手は、三木だった。如何に親しい仲でも、極限に於てこれだけは見られたくないという用心感が、奥の方に残るものだが、そういう用心感さえ、三木に対しては私は少しも懐かなかった。
 私と彼女とのことについて、三木は終始一貫、聊かの好奇心もなく、聊かの詮索心もなく、私達と共にただ酒席を楽しんでくれた。楽しみながら、私達の心情を理解していてくれた。――後に、私は公然と彼女と別れることになったが、そのことを三木に告げると、三木はちらと眼を輝かしただけで、黙って諾いたものである。
 三木は酒が好きだった、というより、酔うのが好きだったようである。銀座の裏通りなどを酔って歩くと、彼はよりかかってきて私と腕を組み、歌をうたった。彼が知ってる歌はごく僅かだったが、その中で、愛馬行進曲を私はよく聞かされた。国を出てから幾月ぞ、というあの初めの一駒は、彼の詩的感懐に娼びるものがあったらしい。
 三木の眼は的確に現実を洞見し得たが、その夢想には詩的なものが根を張っていた。彼は詩が好きだった。学生時代には詩作もしている。最後までそうであった字体、一劃一劃右下りに鉄ペンで書いた字体で、ノートに多くの詩を書いている。嘗て、中島健蔵君や私の前で、それらの詩を披露して嬉しがっていた。中島君も昔は詩作に耽ったことがある。私も二三篇の詩を作った覚えがある。そこで私達は三人とも、詩人に復活して詩を談じた。
 復活せずとも、三木のうちには常に詩人がいた。彼の表現のなかには詩的なものが散見される。ばかりでなく、「哲学入門」のなかには、将来大成さるべき所謂三木哲学への構想の断片が織り込まれているが、それらの哲学的構想の断片は、また哲学的詩想と呼ばれても宜しいものである。
 三木が持っていた人情への理解、芸術への理解、更に人生への理解は、「歴史哲学」などに見える哲学者三木によってよりも、右の詩人三木によって深められたものと私には思える。そしてその理解の上に立って、三木は理知的なヒューマニストだった。

 三木の活動は多方面に亘っている。嘗ての昭和研究会の中堅人物であり、国民学術協会の実質的幹部であり、岩波書店の最もよき顧問頭脳であり、幾つかの文化科学的辞典の中心執筆者であり、天下の青年知識層を魅了した幾多の書物の著者である。西田幾多郎氏に師事していただけで、師弟の系譜なく、独自の存在であって、その交友は多岐多面である。だから一般に彼は、なにか親しみ難い怪物的なものに見えたようだが、人柄は実践的なヒューマニストであった。
 彼の断片的な評論の多くは、一種のモラリストを浮出させる。茲にモラリストと言うのは、社会万般の事象を人間としての立場から批判する知性、ヨーロッパに於ける十七八世紀あたりのそれを指す。これもまた彼の表現がオルソドックスな形を取った所以でもある。このようなモラリストは、本来的にヒューマニストである。
 ヒューマニストたる三木の性情は、日常では、何等のポーズも取らない素朴な態度として現われていた。彼には全くポーズというものがなかった。ありのままの素朴さで吾々に接した。深い叡智と高い知性で饒舌りまくることはあっても、また鋭く人の虚を衝くことはあっても、そしてそのために一部の人々から敵視せられることもあったが、彼自身はただ虚心坦懐に振舞ってるに過ぎなかった。彼に対してはすべて、如何なることがあっても怒る方が無理だ、と常に私は思っている。
 言論の上に於て、彼は余りに多くの対象を取り上げすぎたかも知れない。然し日常の私的生活は、余りにといえるほど控え目だった。最初の夫人を亡くして後、既に義兄だった東畑精一氏の世話で二度目の夫人を迎えたことなど、吾々の多くにも知らせもしなかった。
 このいと子夫人が病気ではいった病院は、私の住居のすぐ近くにあった。だが彼は、私の方から見舞いに行くまで、そのことを知らせなかった。友人知人に迷惑をかけたくない思いと、自分のことは自分だけでやってのけようとの思いと、両方があったのであろう。もっとも、いと子さんの入院当初、私は一ヶ月ほど上海に行っていて、家には娘と女中きりだった。
 上海から帰ってから、私はいと子さんの入院を知り、見舞いに行った。お嬢さんの洋子さんや付添いの人もいた。三木は高円寺の自宅からこの本郷の病院まで、遠いところを毎日通って来て、数時間の看病をした。一昨年の暮から昨年の初にかけた頃で、万事不自由な窮乏な時勢に、食糧を調達し薬剤まで探して来た。所用の都合や病状の如何によっては、どんなにでも私の家を利用してくれるようにと、私は繰り返えし言ったのだが、彼は遂に一夜も私の家に宿泊しなかった。
 いと子さんの病気は肝臓癌で、手のつけようがなく、じりじりと重くなっていった。本人はそれを知らず、ひたすら退院の時期を希求していた
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