した。
その白壁の向う側の、高い木の梢にかかってる小鳥の巣が、子供の頃とそっくりな記憶をよびさましましたので、彼はその方へ足を向けると、はっと立止りました。
秋の陽を受けて、木の根本に屈みこんで、阮大人がじっと頭を傾けているのです、もう髪の毛はなかば白くなっています。なんとなく肌寒そうにも見えます。そして膝の上に、両袖で蔽うようにして、何かを大事そうに抱えています。
阮東には、それが何だかすぐに分りました。古くから伝わってる小さな壺で、手垢で黒ずんでいますが、貴重な品だと聞かされたことがありました。父はその中に、蟋蟀《こおろぎ》を入れて、鳴き声に耳をすましているのです。
そうした父の姿が、阮東の涙ぐましい気持を、急に深くかきたてました。瞼にいっぱい涙がにじんできました。その涙を自分で感ずると、彼は唇をかみしめました。とたんに、今夜に迫った危急な情況がぱっと頭に映りました。彼は嗚咽に似たものが胸にこみあげてくるのを感じました。それが胸にあふれて、激しい憤りとなりました。
彼はつかつかと父の側に歩み寄り、その小壺を手荒くひったくって、木の根本に叩きつけました。壺は砕け散りました。
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