した。
その白壁の向う側の、高い木の梢にかかってる小鳥の巣が、子供の頃とそっくりな記憶をよびさましましたので、彼はその方へ足を向けると、はっと立止りました。
秋の陽を受けて、木の根本に屈みこんで、阮大人がじっと頭を傾けているのです、もう髪の毛はなかば白くなっています。なんとなく肌寒そうにも見えます。そして膝の上に、両袖で蔽うようにして、何かを大事そうに抱えています。
阮東には、それが何だかすぐに分りました。古くから伝わってる小さな壺で、手垢で黒ずんでいますが、貴重な品だと聞かされたことがありました。父はその中に、蟋蟀《こおろぎ》を入れて、鳴き声に耳をすましているのです。
そうした父の姿が、阮東の涙ぐましい気持を、急に深くかきたてました。瞼にいっぱい涙がにじんできました。その涙を自分で感ずると、彼は唇をかみしめました。とたんに、今夜に迫った危急な情況がぱっと頭に映りました。彼は嗚咽に似たものが胸にこみあげてくるのを感じました。それが胸にあふれて、激しい憤りとなりました。
彼はつかつかと父の側に歩み寄り、その小壺を手荒くひったくって、木の根本に叩きつけました。壺は砕け散りました。
父は飛び立って、呆然と彼を見つめました。
彼は足は棒のようで、上半身をわなわな震わしていましたが、その震えがやむと、そこに跪いていいました。
「お父さん、許して下さい。然し、私は、四年間も持ち続けた憤りの火が、次第に消えかかったので、家に帰って来ましたが、家に来て、また憤りの火が燃えだしました。大事な壺を壊した代りに、私は私自身を生かします。匪賊のことも、私に任して下さい。」
それから五年後の晩春の頃、阮家では范志清のために盛大な葬儀が行われました。
この間に、附近の情勢はすっかり改まっておりました。阮東が帰来した翌晩、三十人ばかりの匪賊を邸内で、謀略にかけて、半ば殺し半ば追い払ってから、阮東と范志清とは、その地方の人々を結合させることにかかりました。義勇民兵団が組織され、武器も次第に整備されました。幾度か匪賊の来襲もありましたが、それも大した損害がなくて撃退されました。
阮東の両親は相次いで病歿しました。阮東は一家の主人となってから、同族中の中敏という娘を范志清にめあわしました。そして次第に、一切の事を范志清に任せて、自らは本草学の研究に耽るようになりました。
范志清は時には無謀大胆で、そして常に勇敢で、威令を振いました。ところが或る日、湖水のほとりで、死体となって横たわっているのが、発見されました。背中に二ヶ所、銃弾を受けていました。
范志清の葬儀は、その民兵団の公葬となりました。阮東は、ただ沈鬱に黙々として、葬儀を主宰しました。
死体は、楠の大木のくりぬきの箱に、朱を塗って納められ、五寸ほどの厚みの楠の蓋が、鎹で留められました。墓地は、本人の姓名と生年月日とで占われることもなく、ただ阮東の見立てにより、湖水のそばの小高い丘の上に定められ、やがて、柩を埋めた上に煉瓦の廟を築くように準備されました。木蓮の花が式場一面に飾られ、むせかえるような芳香でありました。遠くから迎えられた大禅師が読経一切を指揮しました。
葬儀万端、盛大に滞りなくすみまして、その夜、さめざめと泣いてる中敏と、すやすや眠ってる二歳の子供との枕頭に、阮東は腕を組んで、いつまでも坐っていました。中敏が泣き疲れて眠ってからも、なお夜通し坐っていました。眼を見据え、眉根をよせて、何か或る想念を、幻像に喚起しようとしてるかのようでありました。時々、酒をのみました。
夜の明け方、彼は胸から一片の紙を取出しました。紙には、「誓約を返上し、後事を委托す。」と認めてありました。范志清がかねて用意していたものとみえて、その死体の内隠しの中から見出されたものでした。阮東はその文字をじっと眺め、それから、火桶の火に紙をくべました。黒い煙が、そして次に白い煙が、ゆらゆらと立昇りました。――その誓約というのが、どういうことだか、誰も知りませんでした。ただ、後で范志清のことを語る阮東の言葉のはしから察すれば、死体を共にするというほどの普通のことらしく思われるのでした。
その翌日、阮東は突然、奇怪な行動をとりました。
范志清を狙撃した犯人はどうしても分りませんでしたが、それについて阮東は、民兵団全員に責任を問い、この責任は血を以て贖うべきであるとし、その血の犠牲者五名を選出せよと、断乎たる命令を出したのであります。
人々はどよめきました。いろいろと諌める者もありましたが、阮東は命令を取消しませんでした。
するうちに、血の犠牲者として、自ら進み出て来た五名がありました。常に范志清のそばで戦ってきた逞しい若者たちでありました。
彼等は阮東の前に直立して、決心の色を顔に浮べていま
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