帰っておいでになりました。天の思召しに依るのでございましょう。」と張達は涙ぐんだ眼を輝かせました。
そして張達の案内で、二人の騎士は、大きな阮家の門をくぐりました。
邸内にはいると、張達は俄に老年を忘れたかのように、駆け廻り、喚き立て、前後の筋途もなく饒舌り立てました。
豪族阮家の大勢の人たちが、急いで飛び出してきて、阮東と范志清とを取巻きました。阮東はその一人一人に向って、ただ黙って頭をさげました。それから、母親の胸には顔を埋め、父親の前には跪きました。
「遠くから来たようだ、少し休息させなさい。」と阮大人は誰にともなくいいました。
その言葉が、阮東の胸にしみました。
けれど、阮東はゆっくり休息するひまがありませんでした。準備されていた盛宴は、阮東を迎えるためのものと変って、早くから初められました。
両親をはじめ一家の人たち二十人ばかり、みな顔を輝かしていました。阮東だけはなんだか沈痛な顔色でした。范志清はにこにこして、自分の家にでも来たように落着きはらっていました。
阮東は、一同から尋ねられても、これまでの四年間のことをあまり、話しませんでした。概略のところ、周家を出てから、知人を頼って、西方遠くの或る都市の匪賊討伐隊に加わったこと、そして時折戦闘もしたが、それよりはおもに、隊の医務をやっていた老人から、本草の学をまなんだこと、そしてその老師が亡くなったので、休暇をもらって帰省したこと、大体そんなことだけでした。
「この范君は、僕以上によく知っています。」と彼は口を噤んで苦笑するのでした。
「ははは、阮君のことなら、阮君自身よりもよく知っていますが。皆さんに御披露するほどよくは知りませんよ。」と范志清は快活に笑うのでした。
二人の友人の間には何か秘密な了解があるようでした。
食卓には、田舎で出来る限りの料理が、次々に持出されました。犢の肉や臓物、豚の肉、まるのままの鶏、湖水のいろいろな魚や蝦、葱や大蒜《にんにく》や茴香、栗や筍、それからまた、百年もたったという老酒の甕も取出されていました。
ところが、料理が食べ荒され、酒が汲み交されるにつれて、賑かになるべき一座の空気は、却って沈んでゆくばかりでした。酔った范志清の高笑いが、へんに浮き上って耳につくようになりました。
阮東は、側に坐ってる父親に、声をひそめて尋ねました。
「匪賊の要求は、いかほどですか。」
「明晩までに八千金というのだ。」と平然たる調子でした。
「それだけの金が、うちにありますか。」
「この前やられたのでね、半分もあるまい。」
「では、どうなさるのですか。」
「どうにか、なるようになるだろう。家の者は皆、蔵の奥に隠れることになっている。わしは、人質になるかも知れない。」
「それでよいのですか。」
「よいもわるいもないのだ。そのため、今晩ゆっくり、御馳走を食べることにした。お前が帰って来たので丁度よかった。ただ残念だが、お前たちは、明日の朝出かけなさい。」
「本気でそう仰言るのですか。」
「どうも仕方がない。」
「お父さん。」
「お前はまだ若い。世の中のことが分るものではない。」
父親の落着いた平気な調子は、阮東の血を却って湧き立たせました。
彼はいきなりつっ立って、范志清に叫びました。
「おい、土産物を持出そう。あれが途中で役立たなくて、家に帰って役立つとは、僕は夢にも思わなかった。」
「よろしい、僕が引受けた。」
范志清は、杯を高く差上げ、一息にぐっと飲みほして、ふらふらした足どりで、室から出て行きました。阮東も出て行きました。
暫くすると、二人は、小銃を二挺ずつかついで戻って来、それを音高く食卓の上に投げ出しました。
「僕たちの土産物です。」
女たちは声を立てました。男たちは立上りました。
阮大人は静かにいいました。
「今晩だけは許すから、賑かにやって、そして、お前たち二人は、明日の朝、ここをたちなさい。」
それももう、二人の耳にははいりませんでした。若い人たちが集ってきて、乾杯の音がしきりに起りました。
酒杯のうちに、匪賊に対する計画は進められました。小銃が四挺に拳銃が二挺あります。弾薬も充分にあります。なお家の中には、いろいろ武器もあります。動員出来る若い農夫や漁夫も、近くに大勢いる筈でした。
そのうちに阮東と范志清とは、長旅の疲れも出て、長椅子の上にうとうと眠りました。
阮東が眼をさました時は、もう太陽が高く昇っていました。范志清が万事の指揮をして、忙しく動き廻っていました。
阮東は、長年ぶりの生家に、而も戦闘を目前にひかえて、なにか涙ぐましい気持で、ぶらりと庭の方へ出て行きました。数本の灌木が紅葉し、叢のなかに咲いてる小さな花の白と紫が、眼にしみました。少し剥げおちた白壁には、昔のままの汚点がついていま
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