かりと浮いていました。
 阮東は、裏庭から書生部屋の方へかけこみ、床《ゆか》の上に身を投げ出して、死んだように横たわっていました。もう眼も開かず、泣く力もありませんでした。
 長い間たちました。誰も見舞ってくれる者もありませんでした。阮東は身体中つめたくなったのに気付いて、ぼんやり起き上りました。そしてそこに坐ったまま、また長い間じっとしていました。
 万事窮した、面目もすべてつぶれた、と彼は思いました。
 その午後、彼は黒い絹の晴着をつけ、片足によごれた沓をはき、片足ははだしのまま、街に出て、百貨店に行き、上等の沓を買ってはきました。そして六階の塔の上にのぼりました。
 塔の上から眺めると、都会の煤け黒ずんだ屋根並が、いろいろな勾配をなして、無心にごたごたと並んでいます。狭い深い街路には、蟻のような人通りです。
 そうだ、ここから……と彼は何かに促されたようで、ぞっとしました。眼の下の深いところへと、強い力が渦巻きこんで、その中に自分も巻きこまれる気持でした。
 その、巻きこまれる前に、彼はふと眼をあげて、うつろな瞳を空に向けました。鳥が一羽、宙に浮いていました。その映像が次第に生きてきて、力強い悠長な鳶となり、鳶は空高く、両の翼を張って、大きな圏を描いて舞っています。
 彼の瞳は鳶に囚えられました。囚えられながら輝いてきました。身内からあらゆる悲しみという悲しみがわき出し、それが大きな憤りと変ってきました。自分自身に対する、また世の中に対する、大きな憤りでした。
 彼の全身は震えおののいて、そこに屈みこんでしまいました。そして彼は両膝に顔を埋めて泣きました。泣きながら、歯をくいしばり、両手の拳を握りしめました。
 久しくたって、彼はその塔からおりてゆきました。憤りに燃え立った恐ろしい顔をしていました。

 それから四年ほどたった秋のことです。阮家の近くの、海岸寄りの湖水のほとりで、阮家に出人りをしている老船頭の張達が、煙草をふかしながら、湖水に小舟を浮べて網の寄せ打ちをやっている漁夫たちを、笑顔で眺めていました。
 その湖水の渚を、馬上でやってくる二人の男がありました。いずれも逞しい若者で、粗末ながら乗馬用の服装をし、腰には拳銃らしい革袋をさげ、鞍には大きな荷をつけていました。
 その二人は、時々なにか語りあいながら、渚づたいにゆっくり馬を進めて来ましたが、張達
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