虻もとまったことのない綺麗な花を、私が取ってあげます。」
「いけません。」と風のようにすげない声がいいました。
「私はあなたとお話することを、母から厳重にとめられております。あなたに御用をたのむことを、父から厳重にとめられております。こうしてお目にかかるのも、私は、心が咎めてなりません。」
「それは間違いです。いえ、それならば……向うをむいていて下さい。私の方を見ないで、そこに待っていて下さい。一番きれいな花を、私の心をこめた花を、取ってあげます。」
 阮東は直ちに、李の木の大きなのに駆けより、その幹をよじのぼり、高い梢を引きたわめて、目につく一枝――蕾から咲き出たばかりでまだ蜂も虻もとまったことのない美しい花の一枝を、折り取りました。そして飛び降りてきますと、もう、素英の姿はどこにも見えませんでした。
 幻を見たのでしょうか。幻と話をしたのでしょうか。――阮東は頭を振りました。手にしてる李の花を眺めました……。
 やがて、彼は幻にでもひかれるように、李の花を持ったまま、ふらふらと歩きだしました。
 土塀の小門をくぐって来ると、広い中庭で、池を中心に、太湖石が奇怪な形につみ重ねてあります。
「お嬢さん……素英さん……。」
 阮東は口の中で胸いっぱい叫びながら、池のほとりまで来ましたが、池の澆水のつきるところ、高廊の朱の柱が眼にしみると、もう先へは進みかねて、そこの、飛竜の形の岩に身をなげかけ、さめざめと泣きました。
 時たって、高廊の上に、周家の主人が立現われ、朱の柱に左手をかけ、右手を握りしめ、のびあがってじっと阮東の方を睨まえました。
「阮東……不埓者、阮東。」
 怒りに震えた雷のような声でした。
「書生の分際で、お前は、周家の娘を何と心得ているのだ。そういう不埓者は、もう邸に置くことは出来ない。出て行け。即刻立ち退け。」
 その言葉を阮東は胸の真中に受けて、仰向けにひっくり返りそうになりました。そこを持ちこたえようとしたはずみに、足がよろけて、池の中にざぶりと落ちこんでしまいました。
 水は胸の下までの深さでしたが、横倒しに落ちこみましたので、彼は一度水に沈んで、それから慌て騒ぎ、夢中にあばれて、漸くはい上がり、そのまま、裏庭の方へ駆け出しました。
 池の中には、李の花の一枝が、花弁を幾つか散らして、ゆらゆらと浮いていました。そのそばに、阮東の黒い沓が片方、ぽ
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