だかひどく黙っています。僕は時々恐ろしくなるんです。……何かをひそかに計画でもしているようで。」
孝太郎はぎくりとした。然し彼は自分でそれを押し隠そうとでもするかのように云ってみた。
「富子さんには何だか二つの矛盾したものがあるようですが……。」
「そうかも知れません。その一つは僕が拵えあげたようなものです。」
こう云って恒雄は少し足を早めて歩き出した。孝太郎はその後から追っかけるようにして云った。
「あなたは真実富子さんを愛していますか。」
「偽りの愛というものがありますか。そして僕は妻に対する自分の愛着を見る時、云い知れぬ恐怖に駆られるんです」
二人は暫く黙然として歩き続けた。
「一体どうなるんでしょう。」と突然恒雄が云った。
「どうすればいいんです。」
「えっ!」
二人は一寸顔を見合った。それからすぐに対手の意味を失って視線をそらした。
「ビールでも飲みませんか。」
「そうですね。」と孝太郎は躊躇した。「一寸用が……。」
「それじゃ此処でお別れしましょう。」
二人は互の顔を見ないようにして右と左に別れた。
孝太郎は真直に歩いた。とある並木道に出て、葉の散りかかった樹の下を歩いていると、すっと一筋の蜘蛛の糸が彼の眉のあたりに懸った。手を挙げて払ったが、幾度してもやはりその細い糸が眼に懸っているような気がした。何かちらちらと光っている枝葉の間を透《すか》して見ると、朧ろな月がぼんやり空に浮んでいた。
孝太郎の混乱した頭に、富子と恒雄と彼自身の姿が浮んだ。三人のまわりには脱すべくもない惑わしが立ち罩めているような気がした。いつまでもじりじりと苦悩にせめられて生きるであろう。遁るべき道はもはや一つもない、何処にもない。ただ……。孝太郎はその時凝然として立ち止った。
彼は富子の死をふと考えたのである。富子が居なければ二人は助かるであろう。そして凡にやさしい愛が蘇るであろう。然し彼女はどうして死ぬであろうか。劇薬、短刀、拳銃、溺死、縊死、何れも皆彼女にはふさわしくない。然し屹度彼女は死ぬる……。
孝太郎はいつのまにか、富子が死を決心しているもののように思い耽っていた。彼の頭にはある機会をねらっている彼女の姿がはっきり浮んだ。そして恒雄の言葉が思い出された、「何かをひそかに計画でもしているようだ。」……今恐らく恒雄はまだ家に帰ってはいないだろう。そして富子は一人で……。
孝太郎は悚然として眼を見張った。危険だ! という思いが彼の脳裡に閃いた。
孝太郎は馳けるようにして、寒い空気を衝いて家に帰った。何にも彼の眼には入らなかった。そして彼はいきなり富子の部屋の襖を開いて、其処につっ立った。
富子は火鉢にもたれてじっと坐っていた。その前には縫いかけの何かの布《きれ》が放り出されていた。
彼女は静に顔をあげて孝太郎を見た。然しその眼にはいいようのない不安の光りがあった。
「どうなすったんです、」と彼女は口早にいった。
孝太郎は茫然と自失して棒のようにつっ立ったまま大きく見開いた眼を漠然と富子の上に据えていた。
「どうなすって?」と富子はくり返した。
と突然物に脅えたように富子は立ち上った。
孝太郎は駭然とした。そして殆んど本能的に富子の前を逃げるようにして二階の書斎にかけ上った。それから彼は机の上によりかかるようにぐたりと坐った。
彼の頭の中で何かががらがらと壊れるような気配がした。そして頭に一杯満ちていた潮が急に引いたように思えた。凡てのことがぼんやり彼に分ってきた。
胸にはまだ高く動悸が打っていた。その中で彼はきれぎれに悪夢のように、自分の後ろに覗いても底の知れない暗い大きいものを引きずっているように感じた。後頭部が石のように重いのを感じた。そして何かに喫驚して、ふと後ろをふり返ってみた。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「早稲田文学」
1915(大正4)年1月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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