屈めて富子の背に手を置いた。
「どうしたんです……え?……え?」
富子はやはり黙ったまま涙を落した。
「私はどうしていいか分らない。何とか仰言って……え、何とか。」
と富子の涙はぴたりと止った。彼女の眼は空間を見つめたまま動かなかった。そしてはっきりした調子でこう云った。
「あなたは恒雄よりも残酷な方です。」
二人はじっと互の眼に見入った。冷たい大理石のように静まって動かない頬の肉と、涙に満ちた美しい眼とを孝太郎は見た。彼女の言葉に拘らず、涙が彼女のうちの凡てを洗い静めたがようであった。それほど彼女の顔には澄みきった冷たい清らかさがあった。
「もう何もかも忘れましょう。」と富子は云った。
「え! どうして。」
「いえいいんです。」
富子は静に立ち上った。孝太郎も何とはなしに彼女と一緒に立ち上った。一瞬間二人の間に緊張したおずおずとした眼が光った。
富子はそのまま室を出ていった。
孝太郎は惘然と立ちつくしていた。やがて彼はまたぐたりと寝椅子の上に身を投げた。彼の前には暮れ方の冷たい空気があった。そして高い青空が一杯に明るい夕陽の光線を含んでいた。
落ち付いた孝太郎の頭に過ぎ去った光景がありありと蘇ってきた。彼はそれをじっと見つめた。そして其処に、物に惑わされたようなものを見た。それからまた取り返しのつかない心苦しいものを見た。
孝太郎は新たに過去をずっと見渡した。――凡てを投げ出して富子の云う所に従うが正当だろうか、万事を排して自分一人を守るが至当だろうか。または過去の自分の態度が間違っていたのであろうか、それならば悩んだ富子の魂を他処《よそ》に見るべきであったろうか。或は富子の求むる所が誤っていたのであろうか。そして富子と自分とは熱い唇を交わしてはいるけれど……。
孝太郎は此処まで考えてぐっと何かに引き戻されたような気がした。そして胸が重苦しいものにしめ付けられた。凡てをずたずたに引き裂き掻きむしりたいような強暴な精神が彼のうちに乱れた。
けれど夕食の膳に着いて恒雄と富子とに顔を合した時、彼の頭には重い固まりが出来ていた。凡てが生命のない石の塊りのような姿を帯びて彼の眼に映じた。
孝太郎は次第に自分の書斎にとじ籠るようになった。急に寒気が増してきたせいもあるけれど、新らしい悩みが彼の心を捕えたからである。苛ら苛らした日が事もなく明けては暮れた。
孝太郎の心は寒さが増すにつれて次第に深く沈まんとした。然し一層の強さでぐいぐいと外の方へ引きずられた。過去の姿が茫とかすんで、現在の悩ましいものが彼の心に止って来た。
富子が殆んどその姿を二階に現わさなくなった時、孝太郎は自分のうちに彼女に対する愛慾の念が深く萠しているのに眼を見張った。富子との過去の瞬間、凡てを切りはなしたあの息を潜めた瞬間のみが、度々彼の心に蘇ってきた。そして彼は狂わしい眼付でじっと富子の後《あと》を狙った。
「この頃はなぜ黙ってばかり被居るんです。」と孝太郎はある時富子に云った。
その時富子は縁に佇んで、寂《さび》れて来た庭の方をぼんやり見ていた。彼女はふと眼をあげて孝太郎の顔を見たけれど、すぐに視線をそらした。
「黙っている方がいいような気がしますから。」と彼女は云った。
孝太郎はそれきり黙っている彼女の横顔を喰い入るように見つめた。とその頬の筋肉がちらと動いた。
「何をそんなに見つめて被居るんです。」と富子は云ってちらと微笑みかけた。然しその微笑はすぐに冷たく凍ってしまった。
「私は此の頃あなたの心がちっとも分らなくなってしまった。」
「もとからお分りになっては被居らなかったでしょ。」
「先《せん》には分っていたようです。」
「え?」と富子は急に孝太郎の方を向いた。
孝太郎は何か彼女の眼の中に恐ろしいものを見た。
「あなたは此の頃すっかりお変りなすった。」
「みんなでそう私をなすんです。」
「ではなにか……恒雄さんが。」
「何を仰言るんです。」
富子はこう云って自分でも喫驚したように一寸呼吸を止めた。孝太郎はその横顔の上に震える後れ毛を見た。すると彼の心は急に堪えられなくなった。其処に身を投げ出して叫びたくなった。
「許して下さい。私は苦しいんです。」
「そんなことを仰言るものではありません。私は……いえこうしていちゃお互に悪いでしょうから。」
富子は黙って向うへ行ってしまった。
孝太郎は二三歩その後に従った。けれど突然彼は何かにぶつかったような気がした。彼は自分のまわりに冷たい壁と、それから自分のうちに熱い呼吸とを、殆んど同時に見たのである。そして喘ぐような処で、庭に一杯さしている弱い尖った日の光りを見やった。
孝太郎はまたも茫然と佇んだまま富子の姿を思い浮べた。執拗な沈黙と孤独とが、何時のまにか彼女のまわりにたれ籠めていったのである。そして凡てを反撥せんとする冷酷と息を潜めたような内心とが其処にあった。
彼は投げ出されたような自分を見出して、しきりに富子の上に貪るような眼を向けた。然し富子はいつも彼の前から逃げるように避けるのであった。
けれどどうかすると彼等は恒雄と三人で暫く茶の間に一つ火鉢をかこむことがあった。そういう時はいつも恒雄は孝太郎の視線に自分の視線を合せないようにした。
「この頃は会社の方はお忙しいでしょう。」と孝太郎は何気なく彼に云った。
「ええ。それに何だかさっぱり面白くありません。」
「一体職業となるとそう面白いものはありませんでしょう。」
「そうですね。けれど……。」と云いかけて恒雄は、黙って眼を伏せている富子の方をちらと見た。
「この頃御病気の方は?」と孝太郎はまた尋ねてみた。
恒雄は脳が悪いと云って、大分前から医者の薬をのんでいた。
「病気というほどのことはありませんけれど、何だか一向さっぱりしません。」
「どんなにお悪いんです。」
「そうですね、いつも頭がぼーっと熱でも出たように熱くなって、それに何だか物を考える力が無くなってくるようです。」
「余り脳を使いすぎたんではありませんか。」
「ええ。」と答えたが、恒雄はそれから急に両肩を聳かして黙り込んでしまった。
「何処かへ暫く転地でもなすったらお宜しいでしょう。」
恒雄は何とも答えないで孝太郎の顔を見た。孝太郎はその眼の中にある犯し難い反抗の色を見た。そして彼はただわけもなく苛ら苛らしてきた。
「あなたも余り……。」と云って孝太郎は口を噤んだ。
「何です?」
「いえ、」と云ったまま彼は、執拗だ! という言葉を口に出し得なかった。そしてじっと恒雄の乱れた頭髪を眺めた。恒雄はその心持ち円い眉をあげて火鉢の炭火に見入っていた。
孝太郎は苦しい沈黙のうちにふと、こういうことを思い出した。――いつかやはり三人でこうしている時、「何か遊びごとでもあるといいですね。」と孝太郎が云うと、「黙ってばかり被居るからでしょう。」と富子が応じた。その時恒雄は「お前の方が黙っているじゃないか。」と云った。その言葉が冷たく孝太郎の心を刺した。そして富子がすらと眉根を震わした。
「あなたもうお薬を召し上がって?」と富子が突然沈黙を破った。
「いやまだ。」と恒雄は答えて顔を上げた。そして彼は孝太郎の視線をさけるように室の隅に眼をそらした。
けれど富子は暫くじっと坐っていた。それから座を立って薬瓶を黙って恒雄の前に置いた。薬をのむ恒雄の手が少し震えた。
「僕は今日何だか寒気がするから先に失礼します。」と彼は云った。それから彼について立とうとした富子に、「いいよ。」と云った。富子はじっと夫の顔を見たが、そのまま身を動かさなかった。
「つね[#「つね」に傍点](女中の名)が仕度をしています。」と彼女は恒雄の後から呼びかけた。
恒雄はそのまま室を出ていった。
孝太郎は自分の前に坐っている富子を見守った。彼女のうちには悲愴な忍苦の影があった。彼女は殆んど息を潜めたように黙っている。然し孝太郎はまた彼女の頬から頸へかけての柔い肉体を見た。それから赤い肉感的な多少低い鼻の形とを。そしてその堅い内心と、少しも窶れの見えない美しい肉体とが、彼にある惑わしを投げかけた。
孝太郎は心苦しくなって来た。そしておずおずしながらこう云った。
「あなたはどうしてそう堅く堅く自分の心を秘めていらるるんです。」
「え、私が?」
「なぜ物を隠すようにして被居るんです。」
富子は顔をあげて孝太郎を見た。彼女は急に夢からさめたように狼狽の色を浮べた。孝太郎も何とはなしに胸の騒ぎを禁じ得なかった。そして自分の狼狽と富子の狼狽とは意味のちがったものであるという明かな意識が、なお彼の落ち付きを無くした。
「私はもう何にも、誰にも云うまいときめています。」と富子は云った。
富子の顔には、緊と両手を胸に握りしめているような表情があった。そしてその奥に何か解くべからざるものに触れて、孝太郎は悚然とした。
「あの一寸……。」と暫くして云いながら富子は恒雄の居間の方へ出て行った。
富子が出ていった後、孝太郎は何とはなしに立ち上った。自分で自分の身をどうしていいか分らないような思いが彼を捕えた。そしてただぐるぐると室の中を歩き廻った。
間もなく富子が静に入って来た。
「何をそんなにつっ立って被居るの。」と彼女は其処に立ったまま云った。
孝太郎は富子の束髪の下にぼんやり輝いている眼を見た、輪廓が長い睫毛にぼかされた黒い濡っている眼を。
「もう寝ようかと思って……。」と彼は平気を装いながら答えた。
「お休みなさい。」とすぐに富子が云った。
孝太郎は自分の室に一人になった時、云いようのない寂寥と苛ら立たしさとを感じた。彼は何かに胸をわくわくさせながら、恒雄を呪い、また富子を呪った。呪いながらも彼はいつしか富子の姿を眼の前に想い浮べていた。そしてそれに沈湎してゆくと共にある重苦しい恐怖を感じた。底知れぬ悩ましい淵を覗いたような気がしたのである。
ある寒い夜、孝太郎と恒雄とは外套の襟を立てて一緒に街路《まち》を歩いた。
その夜、富子がどうかして恒雄の薬瓶を壊したのである。三人は黙ってつっ立ったままつね[#「つね」に傍点]が畳を拭うのを見ていた。
「お薬が溢れますと御病気が早く癒るとか申しますよ。」とつね[#「つね」に傍点]が云った。
然し誰もそれに何の答もしなかった。そして恒雄と孝太郎とは云い合したように一緒に散歩に出たのである。
彼等は一言も言葉を交えなかった。互の心には、しきりに胸の奥へ奥へと沈みゆくような思いがあった。そしてただ歩くことそのことが、彼等の思いを軽く揺った。
薄い靄の立ち罩めた夜であった。軒燈の光りが寒く震えていた。そして月が朧ろに暗い空に懸っていた。行き交う人は皆堅くなって爪先を見つめながら足早に通りすぎた。
「僕はこの頃生活が厭《いと》おしうなって来た!」と恒雄は搾り出すようにして云った。
「あなたの心はこの頃静かではありませんか。」と孝太郎は一寸恒雄の方を見ながら、心にもないことを云った。
「静かと云えば静かですね、少くとも外面的には。」恒雄の眼はちらと光った。「然し何かが力強くじりじりと迫ってくるようです。」
「一体終局というものは一時にどさりと来るんでしょう。」
「然しそれまでの間が……。僕は人の行為にある一定の動機とか結果とかいうものを信じなくなりました。丁度濁った水の流るるようなものですね。そして運命などと云うものもそれを指していうんでしょう。」
「そうです。然し何かしら誰もみんな毎日些細なものを積んでいって、それが一緒に集って頭の上に重苦しいものを蔽い被せるようです。運命が……と思う頃には、もう後《あと》にも先にも恐ろしいものが見透しのつかないほど深く立ち籠めています。」
孝太郎はいつしか自分自身のことを口にしていた。
彼等は明るい電車通りを通ったり、狭い横町へ折れたりした。息が白く凍って流れた。
「この頃富子さんはどうかなすったのじゃありませんか。」
恒雄は一寸足を止めて孝太郎の方を見た。それからまた眼を地面に落して歩き出した。
「何
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