か狼狽し、それから顔を赤くして俯向いてしまった。
 恒雄はじっとその姿を見た。「俺よりも妻の方がよほど処女《バージニチイ》に遠い!」と彼は思った。それから後で彼はそれを思い出す度毎に、妻の感覚のうちにはあの男との過去の回想が交っていると推定したのである。
 孝太郎は今その話を思い出して、ある嫌悪の情が起った。然しそれは富子に対してではなく、それを云った恒雄に対してであった。そしてまた今日恒雄と一緒に行かなかった富子に対して、わけもなく腹立たしいような思いをした。
 その午後富子と顔を合した時、彼は一人胸を苦しめながらこう云った。
「あなたはなぜ今日行かれなかったのです。」
「それじゃあなたは?」と富子は云った。
「行きたくなかったからです。」
「私も。」
 二人はそのまま其処の椽側に屈んだ。富子は訴えるような眼付を彼の横顔に投げた。
「もう何かを余り考えないで下さいね。」
「何にも考えてはいません。」孝太郎はやはり正面を真直に見ながら答えた。
「ねえ!」暫くして富子はほっと息をした。
「私ほんとにあなたに済みませんわね。」
「そんなこと仰言っちゃいけません。誰も悪いんじゃないんですから
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