ている間に恒雄は家を出て行った。
その時、富子はほっとしたように孝太郎を見た。彼は何だかひどくそわそわとして、そのまま黙って二階に上ってしまった。
一人になった時孝太郎はやはり行かなくてよかったと思った。もう身を動かしたくないような気分が彼のうちにあった。然し富子と二人で家に残ったことが深く彼の心を咎めた。それは恒雄に対する単なる思いやりばかりでなかった。こうして一人富子の姿を思い浮べるのが自分自身に対しても何となく憚られたのである。それにも らず[#「 らず」はママ]、彼はやはり階下《した》に居る富子のことを思い、また彼女と恒雄との間を思っていた。そしてふと或る時恒雄が興奮しながら語ったことが彼の記憶に浮んできた。
――それはある狂わしい晩春の頃であった。恒雄と富子とはよりそって、夕暮の空に流るる悩ましい雲を見ていた。富子は指先を男の手に嬲らせながら、そっと横顔を男の顔にあてた。
「耳を……。」と彼女は囁いた。
恒雄は柔い女の耳朶を唇に挾んだ。
「もっと強く。」
それで彼は強く歯でそれを噛んだ。
「いたい!」と女は云ってつと顔を引いた。それからちらと夫の顔を見た。彼女は何だ
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