に忍びなかった。
 恒雄のこういう心を富子は理解していないであろう。そしてまた、富子は過去にかの男の胤を宿したことがあるけれど、それは自然の流産に終ったという事実を、恒雄はまだ少しも知らないでいる。それからまた富子と孝太郎との新らしい間を恒雄が知ったなら……。
 孝太郎は心が何かに搾らるるような気がした。そして単なる同情の接吻というものは……と考えてみたけれど、その先を見つめるのに堪えられなかった。
「何処かへ行きませんか。」とある時恒雄は孝太郎に云った。
 それは綺麗に晴れた日曜の朝であった。静かな小春の日光が、何処かに小鳥の囀るような気持ちを齎していた。
「そうですね。」と孝太郎は曖昧な返事をした。
 種々な郊外の名所の名が恒雄の口から出た。そしてしまいには鎌倉附近を一日遊んで来ようということになった。
 然しその時孝太郎は一種の懶い疲労を感じて、白日の下に恒雄と一緒に歩くことが何とはなしに躊躇された。澄み切った空に満ちた光線や、黄色い銀杏の葉や、静かな野や海が彼の頭に映じたけれど、それを見る自分の心が何となく気付かわれた。
「富子さんは?」と何気なく聞いた。
「富子も一緒につれて
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