むのは、その肉体を愛することを少しも妨げなかったのです。実際僕のうちには妻の肉体に対する愛着が深く喰い入っていました。そしてその愛着がなお僕を執拗にならしたんです。僕も君が云うように、僕を知らない前に妻が他の男を愛したことを責めるのではありません。然しその男は今も生きています、そして時々は妻のことを思い出すでしょう。妻もその男のことを時々思い出しているに相違ありません。よし離ればなれにせよ、二人の心が時々相顧みて過去を現在に生かしているという事実は、僕にとって堪えられない苦悶の種です。実際僕はそのために妻を責めながら、益々妻の心にその過去の記憶を蘇えらすようにしているのかも知れません。然しそれならばと云ってどうすればよかったのでしょう? 或は僕か妻か何れかが間違っていたかも知れません。と云って今になってはもうどうすることも出来ないんです。……あの男か妻か、どちらかが死んでいればよかったのです。」
 こう云って恒雄は顔面の筋肉をぴくぴくと痙攣さした。そして、「あなたが愛を信じるなら現在の愛着の上に新らしく未来を築き上げてゆかれる筈です。」と彼に云った孝太郎は、この告白をきいて彼の顔を見る
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