に狼狽の色を浮べた。孝太郎も何とはなしに胸の騒ぎを禁じ得なかった。そして自分の狼狽と富子の狼狽とは意味のちがったものであるという明かな意識が、なお彼の落ち付きを無くした。
「私はもう何にも、誰にも云うまいときめています。」と富子は云った。
富子の顔には、緊と両手を胸に握りしめているような表情があった。そしてその奥に何か解くべからざるものに触れて、孝太郎は悚然とした。
「あの一寸……。」と暫くして云いながら富子は恒雄の居間の方へ出て行った。
富子が出ていった後、孝太郎は何とはなしに立ち上った。自分で自分の身をどうしていいか分らないような思いが彼を捕えた。そしてただぐるぐると室の中を歩き廻った。
間もなく富子が静に入って来た。
「何をそんなにつっ立って被居るの。」と彼女は其処に立ったまま云った。
孝太郎は富子の束髪の下にぼんやり輝いている眼を見た、輪廓が長い睫毛にぼかされた黒い濡っている眼を。
「もう寝ようかと思って……。」と彼は平気を装いながら答えた。
「お休みなさい。」とすぐに富子が云った。
孝太郎は自分の室に一人になった時、云いようのない寂寥と苛ら立たしさとを感じた。彼は何
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