隅に眼をそらした。
 けれど富子は暫くじっと坐っていた。それから座を立って薬瓶を黙って恒雄の前に置いた。薬をのむ恒雄の手が少し震えた。
「僕は今日何だか寒気がするから先に失礼します。」と彼は云った。それから彼について立とうとした富子に、「いいよ。」と云った。富子はじっと夫の顔を見たが、そのまま身を動かさなかった。
「つね[#「つね」に傍点](女中の名)が仕度をしています。」と彼女は恒雄の後から呼びかけた。
 恒雄はそのまま室を出ていった。
 孝太郎は自分の前に坐っている富子を見守った。彼女のうちには悲愴な忍苦の影があった。彼女は殆んど息を潜めたように黙っている。然し孝太郎はまた彼女の頬から頸へかけての柔い肉体を見た。それから赤い肉感的な多少低い鼻の形とを。そしてその堅い内心と、少しも窶れの見えない美しい肉体とが、彼にある惑わしを投げかけた。
 孝太郎は心苦しくなって来た。そしておずおずしながらこう云った。
「あなたはどうしてそう堅く堅く自分の心を秘めていらるるんです。」
「え、私が?」
「なぜ物を隠すようにして被居るんです。」
 富子は顔をあげて孝太郎を見た。彼女は急に夢からさめたよう
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