孝太郎の心は寒さが増すにつれて次第に深く沈まんとした。然し一層の強さでぐいぐいと外の方へ引きずられた。過去の姿が茫とかすんで、現在の悩ましいものが彼の心に止って来た。
 富子が殆んどその姿を二階に現わさなくなった時、孝太郎は自分のうちに彼女に対する愛慾の念が深く萠しているのに眼を見張った。富子との過去の瞬間、凡てを切りはなしたあの息を潜めた瞬間のみが、度々彼の心に蘇ってきた。そして彼は狂わしい眼付でじっと富子の後《あと》を狙った。
「この頃はなぜ黙ってばかり被居るんです。」と孝太郎はある時富子に云った。
 その時富子は縁に佇んで、寂《さび》れて来た庭の方をぼんやり見ていた。彼女はふと眼をあげて孝太郎の顔を見たけれど、すぐに視線をそらした。
「黙っている方がいいような気がしますから。」と彼女は云った。
 孝太郎はそれきり黙っている彼女の横顔を喰い入るように見つめた。とその頬の筋肉がちらと動いた。
「何をそんなに見つめて被居るんです。」と富子は云ってちらと微笑みかけた。然しその微笑はすぐに冷たく凍ってしまった。
「私は此の頃あなたの心がちっとも分らなくなってしまった。」
「もとからお
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